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環境保護の多様化

2024-07-15 04:19:11 | 環境関連


 環境保護のつもりで、環境破壊していることは案外に多い。逆に環境破壊だと言われていることの中には、環境を支えているものがある。農薬を使う農業は環境破壊だから止めろという。何を食べているのだろうかとおもう。人間がいなくなれば、環境はなくなる。

   農薬を止めれば、何億人もの人が餓死に陥る。環境を守って飢え死にすることが正しいことであろうか。こういう議論の立て方は、幼稚であるし感心したこと出ないことは分る。しかし、農業をやることを環境破壊と言われることはがまんできない。

 私は農薬を使わない。だから食料は自給している。環境を完全に守ることなど、人間である以上不可能である。人間は地球環境を壊しながら、生息域を広げ、文明を謳歌してきたのだ。確かに人間は生命としてその限界を超えて、環境破壊を続けている。

 地球と言う範囲では、生息できない限度を超えたほどの人類の増加である。他所の惑星まで手を出そうという人類である。環境を保全すると言うことが、不可能になっている人類の増加が起きた。それが地球激暑化現象になって、表れてきている。激暑化阻止が環境保全の差し迫った課題だ。

 地球環境はあまりに巨大で総合的なもののために、人間の良いと考えたことが、実は環境破壊であったと言うことは、数限りなくある。例えば山の樹木は伐採して、良い管理のされた人工林を、循環して行く方が良いという考えもある。

 一方に単相化した人工林は自然破壊だとして、太古のままの自然を維持することが一番だから、樹木は切ってはならない。という考え方がある。手つかずの自然こそすばらしいという環境原理主義である。一体手つかずの自然は素晴らしいものであろうか。私には恐怖の世界にしか見えない。

 さすがに今ではキジの放鳥を環境保護とは考えていないだろうが、30年前の山北町では、キジを放鳥するのは、環境課の仕事だった。環境課と言ってもゴミ問題が主なる仕事だったのだが。キジの放鳥はあくまで趣味の猟をやる人達の要望に従った行為で、環境課が行うような環境破壊活動ではなかっただろうか。

 このキジが畑に来て、山北での食害はひどいものだった。しかし、キジが悪いわけではない。餌付けされた、小屋飼いのキジではまともに自然界で生き抜ける力が無い。人間が危険という意識もない。畑で餌を食べるのはごく普通に想像できる結果である。この半野生のキジが、未熟な猟友会の人の的には適当なのだろう。

 自然の中を見渡せば、放鳥されがキジが、雄だけで群れを作っている姿は、どこか悲惨な空気さえ漂っている。雄の方が安かったのだろうか。雌は次に卵を取るために、キジ養殖場に残されていたのかも知れない。今はさすがにキジの放鳥は無くなったのだろう。

 というのは大間違いで相変わらず、「大日本猟友会では地元都道府県などと協力して、キジ・ヤマドリの増殖・放鳥事業を行い、狩猟対象の鳥類の増加に努めています。 」とある。石垣島では放鳥した高麗キジが、定着してしまい、害鳥になっている。こういうことを猟友会ではどう考えるのだろうか。責任を持って根絶して貰いたいものだ。

 ニジマスの放流などと言う環境活動は今も盛んにある。川を釣り堀化しようという考えなのだろう。まあ勝手に、ブラックバスを放流して、自分の釣り場にして楽しむという人さえ居るのだから、ニジマス放流ぐらいなら可愛いものということになる。

 そう環境に良いと考えてやったことが実はひどいことだったなどと言うことはいくらでもある。環境教育で一時流行して、学校の隅などに作られた、ビオトープなどと言うのものがある。手つかずの自然が一番だから、手つかずにしておけば、自然が回復すると妄想を起したのだろう。浅はかな自然の理解だ。

 今ではさすがにないはずだ。と思いきや今でも盛んに行われている。千葉県の事例が出ていた。千葉県の実態は分からないが、ビオトープから、侵入生物を除外することは、そもそもビオトープの趣旨からすればおかしくないだろうか。訳の分らない生物多様性だ。

 久野の溜め池でビオトープをやろうとした人が居た。管理しない溜め池が手に負えなくなるのは眼に見えていた。ゴミの散乱と外来生物の天国化してきたのだ。草刈りをするから、環境は維持される。農業をやっている人間であれば、分ることだ。自然は管理しなければ、ひどいことになる。

 何も持ち込まない。何も持ち出さない。人間は手を出さない。こんなことをすれば、大抵の場所で、外来生物の繁殖地に成り果てる。と同時に不正なゴミ投棄場所にも成る。もう日本の自然環境はそういう所に来ているのだ。環境を大切にするのであれば、適切な管理は不可欠なものになっている。

 増えて貰っては困るものを取り除き、増えてほしいものを守らなければならない。増えてほしいものとは、私には美しい花だ。これが環境原理主義者から良くないと言われることになる。極めて不本意だ。環境原理主義者から見れば、美しい花の価値など無意味なものかもしれない。

 しかし、美しい花があるからその場所を守りたいと考えるのは、人間の本性であろう。花のある場所に、さすがにゴミは捨てない。環境を美しく保つためには、花があるということは価値があるのだ。それが例え、そこには最近はなかった花であれ、本来その場所に必要な花はある。

 色々考えた末にたどり着いたものが、溜め池にはカキツバタである。溜め池という農業遺構は、水があるということで、環境を豊かにする要因であることは間違いが無い。しかし手つかずにしておけば、外来植物が繁茂し始める。ガマや、黄ショウブなどが覆い尽くす。

 それならば、農業遺構に相応しいのは。稲作の日本文化としては、カキツバタである。カキツバタは愛知県では県の花になっている。日本古来から田んぼと共に日本全国に広がった植物である。世界遺産・上賀茂神社の摂社の大田神社には、国の天然記念物・カキツバタ群落がある。

 日本文化に於いてカキツバタが重んじられる意味は稲作にある。稲作を行うためには、溜め池や水路が不可欠である。この溜め池や水路を維持するために、美しいカキツバタを植えたのだと考えられる。美しい花があれば、管理屋手入れが続けられるだろうと言うことだ。これが日本の環境維持の考え方の基本だ。

 舟原の溜め池にカキツバタを植えたいがどうだろうかと、箱根にある地球博物館に相談をした。「環境破壊になるから、絶対に止めてくれ」と言う回答だった。その時から、環境主義者を敬遠するようになった。地球博物館では、舟原の溜め池を、ビオトープにすれば良いと考えていたようだ。

 何十年も管理がされなかったために、泥とゴミで埋まってしまい、侵入生物が蔓延ってしまったのだ。里山の自然は手入れによって維持される。当たり前の事が、環境保護主義者には分らなくなってしまった。ほって置いて維持される環境など無い。

 どれほどひどい状況なのかを確認もしないで、手を入れないことこそ環境保全だと思い込んでいるのだ。美しい場所にしない限り、環境は守れない。そのためにカキツバタを水路や溜め池に植えたのは、平安時代からの稲作環境の保全方法だったのだ。

 山での湧き水を、水の神として奉る。その大切な水を溜め池を作り溜めて、田畑に巡らせる。溜め池や水路はこまめな手入れを続ける。水神様の上部には鎮守の森を作る。森は生活のための燃料として、管理が続けられる。日本が作り上げた自然の守り方は、手入れ文化なのだ。




 
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