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国立大学の授業料の値上げ

2024-07-16 04:39:18 | 暮らし


 大学の学費は受益者負担が望ましいと最近主張される。国立大学の学費を年額150万円まで上げるべきだというのが、慶応義塾大学の伊藤公平塾長 の主張だ。大学とはどういう所なのだろうか。もし、大学が就職予備校であるなら、当然受益者負担と言う考え方になるのだろう。慶応はそういう場なのだろう。

 しかし、大学で学ぶと言うことは、国のために必要なことだと考えるならば、大学の授業料は国が負担すべきと言う考え方になる。防衛大学校は学費免除どころではなく、手当が支給される。実際には給与が支給されなければ行く人がまず居ないという現実がある。

 国立大学で学ぶと言うことは、国のためになる人間になり、日本国民のために働くと言うことが将来にある。私はそういう気持ちで、金沢大学に行った。今でも忘れたことがない。自分の稼いだお金で、大学に行くしかなかったので、国立大学以外考えられなかった。当時の学費は月額1000円だった。

 1000円でなければ大学に行けなかっただろう。高校を卒業したのだから後は自分でやれというのが、父の考え方だった。何しろ夏休みなどで家に戻ったときにも、泊まるのはただで良いが、食費ぐらいは出せという考えだった。父には考えがあって、あえて要求したことは分っていた。

 大学闘争の時代と言うこともあり、国のためとはどういうことかは、よく考えたことだった。たとえば、革命を起すことが、国のためかも知れないとも考えた。国のためとは日本列島に暮らす人達の為と言うことだと考えていた。国体とか、天皇とか、政府とかそういう物ではない。

 大学は政府から独立性を持たなければならないものだ。 政府に従う大学であるならば、国立大学の存在意義はなくなる。権力から独立した。自由な学問探究の場であるからこそ、存在意義が高まる。つまり軍事力による国防という目的の、自衛隊大学校ではないのだ。 知恵を持って、国の品格を持って国を維持する大学。

 ところが、驚異的な値上げが行われた理由は、大学教育を受ける者の、受益者負担の考え方である。大学に行くのは自分が利益を得るためなのだから、学費の自己負担は当然だという考え方に変ってきた。それは、大学の研究自体が、産学協同という考えに変ったためが根底にある。

  学問研究・研究成果の発表・討論・教授・学習などに関して、政治・宗教・経済などいっさいの外的権力からの干渉・制限・圧迫を受けることなく、活動しうること。 日本国憲法第23条に「学問の自由は、これを保障する」と規定されている。 

 ところが、日本の学問は企業の利益と言う思想に、学問の自由が制限を受けたのだ。これは日本がまだ高度成長している最中に起きた、方向転換だった。このことが、学問の力を削ぎ、結局の所資本主義の競争に敗れる遠因になった。憲法違反が国を弱めたのだ。

 学問は基礎研究が重要である。基礎研究の厚みが、その国の力に反映してくる。例えば、「いとよ」と言う淡水魚の分類の研究をしたところで、直接的な企業の利益にはならない。牧野富太郎のように植物の分類をしたところで、直接的企業の利益にはならない。

 しかし、この基礎学問の広がりと深さが日本人を豊かな深い人間性を培って来たことは間違いない。豊かな国民が、真に豊かな社会を作る。その結果高潔な日本人が産まれ、それが日本全体の国力を高める。それが江戸時代の思想であり、一時産まれた戦後社会である。

 直接的に企業利益に結びつく学問は実は視野が狭く、先細りしてしまう。例えば農業分野で学士院賞を受賞するには、農薬や化学肥料の研究者である。有機農業のような、企業的農業にはならない分野の研究では、評価をされないし、研究費も出ない。そもそもそういう基礎研究の学者数は極端に少なくなる。

 こうして受益者負担、産学協同の思想が広がると共に、日本は拝金主義に陥り、二等国に転落してしまった。カジノの普及を国が目指すような、品格の低い拝金主義国が、世界の流れから取り残されるのは、仕方がないことなのだ。国が理性の方角を失い、お金の価値しか分らなくなった結果である。

 お金の為が強いか、人間の為が強いか。当然人間のために生きる方が力が湧いてくる。人間は自分のためでなく、人のためにこそ力が出る。やる気が出る。優勝したオリンピック選手が、頑張れたのは応援してくれた人、支援してくれた達がいたからだと、世界中の選手が言われる。

 現代は要領よく金儲けをする人が持てはやされる時代だ。子供達の将来の目標がユーチューバーやゲーマーなのだ。日本はこれをだめだと言えない国になっている。こんな国がまともな社会を作れるはずもない。勉強をするのは、決して自分のためだけではない。

 これは国家主義ではない。人間主義である。雨にも負けず主議である。みんなのためなどと考える必要はない。自分の好きなことを見付け、全力を費やすことだ。そのことが必ずみんなのためになる。そこまで人間を信じて良い。今人間が歪んだ社会に、押されて変形しているだけだ。

 現実には金儲けが好きだという浅い考えの人が、きっと蔓延していることだろう。そこに、受益者負担の浅い考え方が、反映している。社会が受益者負担を求めるのであれば、当然自分が金儲けだけを考えて何が悪いと言うことになる。自分は社会の恩恵を受けて育てられたのではないと考えることになる。

 人間を信用しない社会のつけが回ってきているのだ。人間は生来それ程悪いものではない。それを社会が拝金主義者に育てている。拝金主義で良いのだと教えている。それが大学教育までも受益者負担の思想になった理由なのだ。余裕を失った日本が表れて居る。

 150万円払い、大学教育を受けて、自分のお金のためだけに生きれば良い、と言うことになる。これではだめだ。むしろ憲法の示す国のために生きる人間を教育する。これを国立大学の目的にして、学費は無料にする。国にお金が不足して維持できないのであれば、大学数を減らすほかない。
 
 東大は値上げ分をグローバル化やデジタルトランスフォーメーション(DX)の推進に充てると説明している。留学生の増加を想定しているとみられる。お金をかけて教員や設備などをそろえ、優秀な留学生の受け入れにつなげる。 東大の設備を世界のレベルにしたいと言うことらしい。

 日本の大学は世界から、IT革命に伴う設備が後れを取っているらしい。国は国防費は倍増するというのに、教育費は増えないと言うことらしい。国が拝金主義で、即物的になった結果である。教育は果たして設備次第なのだろうかと思う。基本となる教育の思想が産学協同ではどうにもならない。

 大学教育も、あくまで人間教育である。人間が育てば、必ず良い社会になる。そのことを信じて教育に国は費用を惜しまないことだ。
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