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後期高齢者になるが、終活などやらない

2024-06-17 04:19:46 | 暮らし



 74歳である。あと2ヶ月で75になる。後期高齢者と言うことに成るのだろう。少しも歳をとった気分ではないのだが、れっきとした老人なのだ。自覚できる衰えている箇所は、眼と耳である。様々な自覚できない機能の衰えが来ているのだろうとは思う。

 しかし、まだ死ぬ気はしない。普通に農作業は出来る。朝8時から、夕方5時半まで、先日も田植えをした。翌日も農作業を続ける事ができた。この点では若い頃と較べれば、速度は落ちたが大きくは変らない。頭もぼけてきているのだろうが、まだ認知症と言われるほどでは無い。ブログを書く速度はいくらか遅くなってきたが、一応意味は通ずるレベルは保っている。

 今の願いはのぼたん農園での自給農業の技術の確立まで、農業が出来ることである。先ずは車の運転が出来なくなれば終わりになる。緑内障があるから、眼の維持を願うばかりだ。このところ進行が止まり安定しているので、状況が変らないように現状維持。

 今日を生きる事に全力を費やしたいので、終活などと言うことは考えたくもない。そんなことはやる必要も無いし、むしろ害があると考えている。もちろん死ぬと言うことはよく考える。生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。『修証義』 冒頭に書かれている言葉。『修証義』 は道元禅師の書かれた正法眼蔵の教えを、分りやすく要約したものだ。要約など無理な話なのだが。

  生き物は生まれてくれば必ず死ぬ。死ねばすべてが消え去る。それを良しとして受け入れる。死後の世界などあるはずもない。輪廻転生などない。死後のことは考えることすら馬鹿馬鹿しい。生きている今を直視し、生ききることだけが、生きる事の意味。終活など考えている暇はないのだ。

 自治体の中には終活講座をやるような所も在るらしい。確かに死後の財産が持ち主不明で放置される。家は空き家になり困り果てる自治体が多いので、生きている内に自分の財産の始末をして欲しいと考えるのだろう。死ぬことまで自己責任論である。死後の始末ぐらい行政が担うべきなのだ。だめな社会だ。

 放置され行政に任された財産があるのに、有効利用できずに困るのだから、不思議な時代である。誰もが責任逃れをしている社会だから、安心がないのだ。相続する人が分りませんと、何年も放置して、廃墟になってからしか手を付けない行政は制度を見直すべきだろう。

 1年ぐらい張り紙でもして、応答がなければ、公共の財産にして利用したら良いだろう。利用できないものは利用できるものの上がりで、更地にして有効利用すれば良い。駐車場でも緑地でも道路でも防火帯でも利用法などいくらでもある。

 どこに旅行しても、空き家は目立つ。石垣島でも空き家はある。駅前がシャッター商店街になり、中には崩壊しかけているような地域もある。困ったことではあるが、多くの場合、こんな状況にした当事者は老人である。だからと言って後始末をしない、死んで行く老人の責任なのだろうか。こんな不幸な社会にしたのは、努力を行政が怠っていると思える。

 衰えて身の回りさえままならなくなり始めた老人に対して、もうお前は死んで行くのだから、後のものに迷惑をかけないように、身の回りを早く整理しろと迫るのだ。こんなことは人権蹂躙である。その人それぞれに生きれば良いのであって、それを迷惑と考えるのであれば、何とかするのは社会の方だろう。

 老人は「もの」で囲まれた記憶が重要なのだ。断捨離で何でもすれれば、自分という物も捨てることになる。自分を記憶と結びつく「もの」で自分を維持しているのだ。身の回りの「もの」が無くなることは自分を失うことでもある。私は絵を現在1505枚保存している。終活で捨てろと言われも、今生きる私には必要で保存している。

 描いた絵に社会的に価値があるかと言われたら確かに心許ない。社会的に一時期認められた絵が、美術館の地下に入りきれなくなっているのだ。美術館の絵の大半が、すでに社会がいらない絵なのだ。だからといって整理して捨てろと言われたら、絵描きはかなり辛い。せめて、死ぬまで保存し、見たいときに見れるようにしておきたい。

 終活を商売にしている組織がある。その広告を読むと、1,将来、身の回りのことが自分でできなくなることに不安を感じる。2,自分のことで家族に迷惑をかけたくない。3,おひとりさまなので、そもそも頼れる家族がいない。4,自分は大丈夫だけど、離れて暮らす親が心配。などと迫っている。

 こんな風に勧誘している。誰だって生きる事は不安なのだ。その老人の不安につけ込んでくる。つい弱い心で惹きつけられてしまうのだろう。それは老人ホーム商売も同じことだ。安心して死ねる場所を売り言葉にして、金持ちの老人からお金を巻き上げようとしている。

 江戸時代は姥捨て山の時代だったと明治政府は宣伝をした。それは軍費集めに躍起となった明治帝国主義政府の教育だったのだ。姥捨てなどしないで良い時代になったと言いたかったのだ。確かに子供を捨てる。老人を捨てるという伝承はあるが、それはあくまで民話の伝承の世界の話だ。

 子供を捨てるという話も、世界中の民話にある。そんな怖い話をどこの民族も伝え続けたのだ。それはむしろあってはならないという、集団の思いが煮詰められた民話の伝承なのだ。鬼が出てきて食べられるとか、山姥にさらわれるとか、民話にはそんな怖い話が世界中で伝承されている。

 そうした伝承をあたかも江戸時代には、事実としてあったことにしたかった。明治政府は飢餓とか、子捨て、貧困、姥捨てなどを事実のように教育した。まあ、今の北朝鮮を見ればその意図は分る。そのために、明治時代に産まれた世代は、その伝承を事実であるかのように思い込み、次の世代に語ったのだ。

 だから戦争に駆り立てられた日本人は、お爺さんの話していた昔の世の中を悲惨な世界としか思えず、何とか戦争に勝って豊かな国になりたいと思い込まされたのだ。そんな洗脳教育が現代にも影響していて、江戸時代の3大飢餓などと学校教育で説明されている。本当の東北の疲弊は明治期がひどいものなのだ。

 話は姥捨てになってしまったが、歳をとってもばあさんは役立つだろう。困るのはじいさんの方だろう。役立たずのじいさんほど始末の悪いものはない。大体が威張り腐っているのだ。爺捨て山なら、私も騙されたかも知れない。日本は男社会だから民話も遠慮したのだろう。せめて人に迷惑にならないじいさんで居たいものだ。

 好きなこと三昧に生きる事に限る。これが健康的に生きる秘訣だ。石垣島に暮らしていても、田んぼと畑と絵を描くことだけだ。他のことには興味が湧かない。海に行くとか、山に行くとか、そんなこともない。コロナ以来、街歩きもしない。一年でも長く元気で田んぼで働けるように、そして絵が描けるように身体を保全する。

 終活などくそ食らえだ。死ぬことなど忘れている内に済ませたい。多分生きる事に専念していれば、それどころではないと言うことだろう。やりたいことをやり尽くす。石垣島の自給農業技術を確立に全力をつくしたい。自分の絵を描きたい。これに尽きる。


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