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教員のなり手不足

2024-07-17 04:27:17 | 暮らし


 公立学校の教員のなり手が減少している。理由は大きく3つ考えられる。
1,学校という職場の労働環境が良くないこと。保護者対応の困難さ。
2,勤務時間に明確な終わりがない上に、残業手当が明確にはないこと。
3,教育の仕事が、社会的にやりがいのあるものでなくなっていること。

 教職を目指した時代は、まだ教員に対して聖職という言葉が生き残っていた。尊いやりがいのある職業だという社会認識がまだいくらか残っていた。私の叔父や叔母に当たる人、そして母親。すべてが教職の人だった。ただし、父は教員という職業を蔑視していた。

 世田谷学園の美術講師を7年間やらせて貰った。色々の偶然が重なり、やることになったのだが、やりがいのある7年間であったと思う。何故止めたかと言えば、自給自足生活を成し遂げたらば、教師を辞めて暮らそうと始めから決めていたからだ。

 自分の身体による労働だけで自分を支える暮らしに、禅宗の僧侶としての暮らしを思い詰めていた。それは祖父黒川賢宗の生き方の影響だと思う。祖父は若い時代に北海道に布教に行った。そして、身体を壊し山梨にあった向昌院に入り、自給自足の僧侶として生きた。食べるものはすべて作り、炭を焼き、水を引き、蜂を飼い、山羊を飼っていた。

 教師が辛かったから、続けられなくなったということもある。それは生徒が人間であるからだ。人間として、多くの子供と接することは、特に曹洞宗の学校での教員は、自分の力量を超えていたのだろうと思う。手抜きをしながら、生徒と接することは出来なかった。人間との関わりはいつも困難に満ちていた。

 社会の矛盾は生徒一人一人に表れる。これは金沢大学で小松先生に学んだことだ。社会はとんでもない方角に動いている。このままではひどいことになると感じる毎日だった。生徒達の困難が社会の矛盾に原因していると、結局の所思い至るにもかかわらず、手を打つことなど出来ない。

 この無力感、限界感、が自分につきまとっていることが、やりがいと較べて辛すぎた。当時の世田谷学園はかなりの進学校であった。美術の講師の立ち位置は、困難を極めた。美術を志す生徒もいた。しかし、それは父兄からも、学校からも歓迎されることではなかった。

 多分教職を考える若い人達も、大いに迷うはずだ。例え、教職に就いたとしても、すぐに辞めようかと考えるだろうと思える。しかし、5年間はやらなければ何も分らない。私の場合、そう考えて始めた。教職を正面から自分の生き方として考えたならば、それくらい大変な仕事なのだと思う。

 だから、教員の希望者が減少して、倍率が下がり教職が比較的自由に選択できる時代になったとしても、教職をやる人がさらに減少するのは必然だと思う。資格があるからと言って、給与を貰う為が主目的に始められるような仕事ではない。人間を育てるという仕事は、極めて重い仕事になる。

 私が小学校で学んだ1955年の戦後の混乱期であれば、かなり学校というものは適当なものであった。何しろ60人クラスである。通路すら無い状態。教えるという意味では、教える能力のないひどい教員もかなりいたと思う。戦争帰りのすさんだ教師もいたし、教室に来てただ座っていて何もやらない教師さえいた。

 何を血迷ったのか理由なく、一人の生徒を泥棒にしてしまったことすらあった。それでも、そのクラスから東大を含めて1流大学に10名以上進学している。一方で非行に走って、学校に来なくなり、行方不明になった人も多数いる。なんともデタラメな学校であり、そんな戦後の混乱だった。

 昔は良かったとつい感じてしまいがちだが、学校教育の戦後の時代は、今よりはるかにひどかったと言える。今は良くなっているにもかかわらず、教職はあまり良い評価がされていない。教員希望者は生徒の減少以上に減り続けている。人間を育てる仕事が重いものであるにもかかわらず、その評価がされていないからではないだろうか。

 戦前の師範学校は授業料がなく、優秀ではあるが所得がないと言う学究心のある者には、もっと学びたいという気持ちで、師範学校に進学するという人が多かったようだ。国が教育を国の基礎づくりと考えて、重要なものとしていた。しかし、実際には、師範学校は貧乏な子供だけが行く学校で、差別をされてもいるような矛盾があった。

 この教員差別意識は今ではなくなっているとは思う。現在は教員養成科が授業料無料ではないと言うことにもあるかもしれない。ただし、教員は15年勤務すると奨学金の返済が免除される。教員の職務が激務だというのは、やる仕事が増えたと言うことが大きい。

 生徒に教えるという以外の仕事が多すぎる。本来そういう事務仕事は、ITの専門職に任せた方が良い。雑務全般を引き受ける職員も必要だろう。教員が教えることに専念できる環境を作り出すことが先決である。残業代が問題になるが、残業を教員がしなくて済む環境を作ることだ。

 部活動が問題の一つだ。部活動が盛んな学校では、特別に熱心な教師がいる。よく言われるような、運動部の顧問教師である。一身を投げ打って部活動を指導し、強豪校にする。そのこと自体が生きがいなのだ。所があくまで勝手にやっている部活動という場合も多い。

 本来であれば、部活動はあくまで学校教育の範囲で行うべきなのだが、競技である以上勝ち負けが伴い、熱心でなければ勝てないことになる。自分が好きなことであれば、部活動に情熱を傾けて、給与に関係なく働いている人もいるだろう。

 私は美術部の顧問であった。毎日最後まで一緒に何かやっていた。自分の制作を見せることが教育だと考えていた。もちろん無給である。生徒のやりたいという気持ちを尊重したかっただけだ。そもそも教員と賃金は私には関係がなかった。賃金は回りが考えることだ。この学校に授業料なしで通わせて貰ったのだ。

 部活動は外部人材の利用も進めなければならない。私は週一限小学校の授業を手伝っている。無給であるが、当然であると思うし、お礼など貰いたくもない。子供達の何かになるのであれば、稲作の授業はとてもやりがいがある。私が子供達に出来る事だと思う。

 稲作を通して、見る力を培う。蒔いた種がどのように生長するかを観察する。食べ物を自分の力で作るという体験をする。この作務の体験を通して、一次産業の意味を身体を通して知ってもらいたいと考えている。汗をかいて働くことで、食べ物は出来ること。

 そういう子供達に何かやって上げたいという人材は、世間にはかなりいると思う。そうした人を旨く学校の力にすべきだろう。無給で行うべきものだ。もっと周りの人達と学校は連携すべきだ。子供を社会全体が育てて行くのでなければ、学校は成り立たない。

 結論から言えば、公教育を拝金主義から脱することだ。小学校から英語教育をやるような、企業で即役立つ教育などいらない。教育が拝金主義に連動して、つまらない知育に陥っているのだ。理想の社会を目指す人間が、公教育に情熱が湧かないのも致し方ない。

 人間性を育てる教育である。5感を育てる教育である。稲を見て判断する力、稲の堅さを触って感じる力、土の匂いを嗅いで分る力。ご飯を食べて味が分る力。田んぼに流れている音を聞く力。稲作の授業は作務の時間だと思っている。労働が生み出すものを知ることだ。

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