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元特攻隊員の叔父

2015-08-14 05:15:05 | 身辺雑記

私の母の弟は特攻隊員であった。特攻には出撃せず、生きて戦後を迎えた。昭和3年生まれのはずだ。山梨の私の生まれた家は、向昌院という曹洞宗の寺院で、その寺院の住職として一生を終えた。もう死んで8年ほどたつ。定年まで山梨県の公立中学校の教員をしていた。黒川宗友という人だ。特攻隊員に志願したのは、千葉県の成東中学に在学していた時ではないかと思う。祖父はとても変わった人で、私の母が体が弱いから、体育学校に行くことと決めたような人だった。叔父には将来寺院を継いでもらおうと考えていたので、中学に行くときには千葉県のお寺に預けられたのだ。岩井寺というような記憶があるが。その寺から中学に通っていた。中学と言っても、5年制のはずだ。その上級生のころに、学校の先輩で特攻隊員になった人が、学校に来て、特攻隊員を募集した。それが極め付きに格好良かったので、志願したといっていた。親の了解の書類など必要だったらしいが、印鑑など持っていたので、勝手に書いてしまったらしい。

そのお寺の住職は祖父に謝りに来たそうだが、もうどうにもならなかった。祖父はリアリストで、戦争には勝てないと考えていて、そうの集まりで発言して特高警察に捕まったことがあったそうだから、息子が特攻隊員に志願したことは、馬鹿げているとしか思わなかったそうだ。その理由をコンプレックスからだと本人の前で、私に言った。中学で成績が振るわず、落ちこぼれ状態だったらしい。落第寸前のために、特攻隊に志願した。本人の叔父も、それを否定はしなかった。叔父は特攻隊には志願したが、出撃希望はしなかったそうだ。出撃希望というのは、横一列に特攻隊員が並んで、出撃したいものという号令がかけられ、希望者は一歩前に出るのだそうだ。叔父は一歩前に出なかったといっていた。何度も並んだが、ついに前に出なかった。そう話した。特攻隊員は特別扱いでよかったなどと、いろいろ軍隊の経験をしゃべっていた。敗戦になった時には、清々してさっさと帰ってきたといったと、口にした。しかし、今思えば、そのころ本心を語っていたとは思えない。本心を理解されないだろうから、肝心のことは語らないような感じだった。

実は、もう一人宗田さんという三軒茶屋の画材屋さんが、その叔父とよく似た経験の人だった。特攻隊員の生き残りだった。私はなぜか気性が合ったので、画材はその店で買うことにしていた。ときどきそのころのことを聞かせてもらおうとしたが、やはり語ろうとしなかった。この人の場合、強く思い出したくないという拒絶の感じだった。どういう理由で志願し、生き残ったのかも当然語らなかった。静かな性格の人で、かなりの引っ込み思案の人にみえた。どうしてこういう人が特攻隊員に志願したのか不思議だった。特攻隊で出撃した人は、死んでいて語ることができない。生きて帰った人は、その思いを語ることができない。戦争の体験を語り継ぐという活動は難しい。戦争を知らない世代が日本を構成するようになって、日本はどう変わるのかと思う。

総理大臣70年談話では謝罪をいつまで繰り返して行うのか。もういいだろう、ということを主張する人がいる。確かに元寇の謝罪を今しろと言っても馬鹿げている。基本的には被害関係者が生存している間は謝罪しなくてはならない。少なくとも100年までは、行うべきことだろう。それが国家として行った罪に対する姿勢ではなかろうか。しかし、特攻隊に志願した人にはどういう謝罪が国家として行われているのだろうか。靖国神社に祭られたとしても違うと思う。国家として謝罪は2度と戦争などしないということ以外にない。それは特攻攻撃の被害を与えてしまった、相手側に対しても同じだ。2度と戦争はしない国に日本がなるので、許してほしいという気持ちで謝罪することしかない。叔父さんには無理にいろいろ聞きだそうとしたことを、私は謝らなくてはならない。語れなかった気持ちを今は少しわかる。宗田さんにはなおさらである。申し訳ないことをした。


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