ある女性漫画家の方が自分の作品をテレビドラマ化を許可した結果、勝手に作品の主旨を変えられてしまい、耐えられずに自殺してしまった。漫画というものが、テレビの衰退に変って、時代の表現の大きな手段になっている。この時代の中心になる表現法になっているのかも知れない。
今では漫画家が芸術院会員になる。いつか文化勲章も貰う人が出てくるだろう。もちろんテレビプロデューサーよりも社会的に認められた創作家である。漫画家を軽く見ているテレビ関係者が未だにいるのかもしれない。テレビの方が、くだらない娯楽になってしまったのが現実だ。
落ちぶれてきたテレビ局らしいひどい話である。漫画とテレビが主客転倒した為に起きているのかもしれない。漫画家が本気の創作家であり、表現者なのだ。テレビ番組を作る人は、何でも視聴率を稼げるものさえ、作ればいいというような、商業主義の人に過ぎない。
テレビ局は自分の置かれた位置が、漫画家よりも低くなっているという自覚がまだ無い。テレビ局の衰退によって生まれているギャップ。倫理観のない視聴率主義が原因だろう。これは絵の世界にも広がったことだ。資本主義末期の衰退なのだろう。
テレビは人間を白痴にすると言われて始まった。当たっていたかも知れない。文化を創ることは出来ずに、終わろうとしている。漫才師が日々テレビでくだらない、小学生の虐めのような悪質な馬鹿騒ぎを繰り返している。みるのも嫌なものばかりなので、今ではニュースと朝の連ドラ以外に見ない。その変わりにユーチューブを見ている。
作者に対してはその原作の意図を十分に尊重して、作りますので、使わせてください。とお願いしたことに間違いが無いが、そんなつもりもないし、そんなはずがない。視聴率が取れなければ、いくらでも設定が変えられて行くものだろう。
テレビを見ないし、漫画もまずは読まないので、何とも言えないのだが、漫画家の自殺と言うことでは、見過ごせない気分がある。好きだった漫画家ちばあきおさんは自殺された。「キャプテン」「プレーボール」という素晴らしい漫画を書いた。生き方を学ぶところが沢山あった。
ちばあきおさんは満州の奉天で生まれた。亭術因会員の漫画家、ちばてつやさんの弟。4人兄弟の三男高校は夜間学校で、昼間は玩具製造工場に勤めていた 。身体を壊して、工場を辞め、ちばてつやさんのアシスタントになる。そこから漫画家を志す。
「キャプテン」は中学野球の物語。谷口、丸井、イガラシ、近藤の墨谷二中の4代にわたるキャプテンと仲間の話。谷口キャプテンの下に成長した丸井君は、谷口キャプテンを支えながら、次のキャプテンになる。丸井君らしい新たなチームの中で、少しやんちゃな天才的なイガラシ君が現われ次のキャプテンになる。
谷口君が高校に行き、高校野球をやるのが、「プレーボール」である。こうして、野球を通して健全な人間の成長が描かれて居た。互いに人を思いやる心が描かれて居た。力を合わせるという意味を教えられた。一人でやれるようになったら、次はみんなでやれるように努力する。谷口君になりたくて農の会を始めたのかも知れない。
一人の自給から、みんなの自給に進んだのは、ちばあきおさんの漫画から教えられたことだと思う。そして、あしがら農の会で、墨田二中の世界のように、互いに支え合う、仲間が現われた。一人では出来ないことも、みんなでなら出来る。それが今の「のぼたん農園」に続いている。
今回の場合少し意味は違うが、あえて自分が慣れない脚本まで手がけても、テレビドラマに納得がいかなかったのだ。漫画とテレビでは表現が違ったために思うように進まなかったようだ。それは当たり前だし、自分の連載の方も結局最後まで書けずに死んだことになる。
10回の内最後の9,10を自分が直接脚本を書くと言うことをしている。それが許されたと言うことは、テレビ局とのあいだで、話し合いがあり、原作をねじ曲げたことが確認されたためだろう。8までの脚本家を下ろして、原作者が脚本を書いたと言うことは異例だろう。
この脚本家は腹を立てたことだろう。怒って当然である。原作のままに脚本を作れなど最初から言われていないのだ。視聴率の取れる脚本にしてくれとだけ言われてやったことだろう。その結果下ろされるなど、脚本家としての自尊心は壊されたことになる。
脚本家としては、いつも通りに仕事をしたのに、何様のつもりかと不満だったようだ。それで、その不満をネットで公開したらしい。漫画家の方も脚本が内容が違っていると言うことを、やはりネット上で説明で書いていたこともあり、ネットでいわゆる炎上があったらしい。
自殺した方の思いは、自分の限界に対する怒りもあったのだろう。脚本の方に無理をして降りて貰った上で、自分が脚本を書いた作品の終わり方にも納得がいかなかったのだろう。もし一定の方向が見えたのなら、自分の掲載中の作品の中で、その成果を表現したはずだ。
スタジオジブリの「魔女の宅急便」でも、原作者はあまりの改変にショックを受けたそうだ。原作として使わせて貰うという意味を、使う側と提供する原作者との間の十分な話し合いと、契約の問題であろう。使う側は原作ではあるがあくまで材料として使いたいことが多いのだろう。
映像と原作の文章や漫画とは表現が違うのだから、当然自由な改変がなければ映像での制作の目的を達することが出来ない。だからそうした改変が嫌な場合は、テレビや映画に作品を提供しないと言うことだろう。しかし、辛かったのは、テレビの改変主義を分かっていたので、改変しないという前提の約束があったと言う点だ。
プロデユーサーは脚本家には自由に書き直して、おもしろしてくださいと言うことになる。創作というものはそういう物だとして、テレビの世界はやってきた。つまり人の手に渡ればそこにも新たな創作者はいて、その人の作品となってしまうものだ。このギャップが辛い結果になった。
死なれた方を悪く言うつもりなど全くないが、創作するものは自分の作品と自分とは違うと言うことを自覚しておく必要がある。一度発表すれば、それは外界のものである。どのようにゆがめられて使われようとも、もう作者とは離れたものになっている。
創作すると言うことはそういう世界に身を置くと言うことでは無いだろうか。そもそも著作権などというものは、認める必要もないものだ。創作物は一度公表した以上、誰もが自由に使ってかまわないものだ。それが嫌なら創作をしても公表などしなければ良い。そういう絵描きの方も居る。
創作すると言うことは、創作すること自体に充実を感ずれば、それで終わりで良いことだ。作品から離れれば良い。創作したものを自分の生み出したものとして、権利を維持する意識はいらない。その背景にあるのは、創作したもので生計を立てているという現実がある。それでも作品は純粋に創作であればそれだけで良い。
私の作品の場合、二次使用はどのような形でも自由に使って貰って良い。