あるきメデス

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関東百駅巡礼歩行 JR東海道線 大磯駅(神奈川)

2013-04-19 14:59:16 | 関東百駅巡礼歩行

 先週末から昨日、4月18日まで、15日を除いて歩きに出かけていてアップの間隔が
長くなりました。その間の模様を、順次投稿します。

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 2013年4月13日(土)

 爽やかな晴天に恵まれ、関東百駅巡礼歩行の第94番が開催された。集合地はJR東海
道線の大磯駅。


 集合前に駅前を少し回ってみる。駅の南側に、国登録有形文化財になっている大磯駅前
洋館と呼ぶ旧木下別邸があった。大正元(1912)年に建築されたという。


 初参加の2人を加えた参加メンバーは、記念撮影をして11時10分にスタートした。


 駅前の八百屋さんには、地元で採れた竹の子が並んでいる。


 その先の緑地の隅に、三菱財団の創始者・岩崎弥太郎の孫娘で、戦後、多数の混血孤児
を育て上げた、エリザベス・サンダースホームの創設者、沢田美喜さんのレリーフがあり、
読みにくいが沢田さんの生涯が紹介されていた。

 エリザベス・サンダーホームは、背後の丘陵の向こうにあるようだ。

 駅前から西南に向かう通りには、落ち着いた彩りの瀟洒(しょうしゃ)な建物が幾つか
目に付き、そのひとつ、ギャラリーさざれ石では、「ー大磯の光と風ー」という個展を開
催中。


 大磯小の先で国道1号・旧東海道に出ると、カレー店舗に転用した古い日本家屋も残っ
ていた。


 旧東海道松並木の始まるところで歩道橋を渡る。


 橋の上からは、これから上がる湘南平のテレビアンテナ塔などが望まれる。


 北側の台町の細道に入ると「松並木工芸」と呼ぶ小さい店があり、手工芸品などが並ん
でいた。


 東海道線の線路沿いに出て駅方向に少し戻り、標識に従い南に入ったところに、島崎藤
村の旧宅がある。



 昭和16(1941)年から、71歳で永眠するまでの2年余りをここで過ごしたという。

 近くの地下道を東海道線の北に抜けて、湘南平の山麓を東に向かう。御嶽神社の少し先
から、標識に従い湘南平に向かって上がる。

 ヘヤピンカーブを三つ過ぎた住宅街から展望が開け、前方に大磯の家並みや東海道の松
並木、太平洋の海原の展望が広がる。西に目を向けると、金時山、二子山など箱根連山や
真鶴半島は、春霞でぼんやりとしている。


 住宅街が尽きた上にあった高田公園に正午過ぎに着き、草の広場の木陰に腰を下ろして
昼食にした。


 この先は山道となり、ところどころに湘南平への立て札が立っている。広葉樹の木々は
淡い新緑の彩りを見せ、大きく枝を広げた大樹も見られる。





 上り道の中に二度の下り坂もあり、次第に高度を上げ、「曽我十郎之硯水」碑の立つ小
さい池の横を上がり、放送局のテレビアンテナ塔の立つ湘南平山頂に着いた。



 広場の北側にあった古い展望台に上がってみたが、広葉樹が伸びて南側の海の展望は利
かず、北側に大山(おおやま)や丹沢山塊の山並みの展望がわずかに得られる。


 広場の西に新しい展望台があり、そちらからは展望が良さそうだが、回らなかった。

 在京の民放五社とテレビ神奈川の平塚テレビ中継放送局のアンテナ塔の横を下ったあた
りで、わずかに北の展望が開け、大山の全貌が望まれた。



 上ってきた分岐に戻り、さらに前方に少し上がると浅間神社の小さい祠の横に、標高
181.3mの一等三角点があったが、ここは周囲の広葉樹が伸びて展望は得られない。
傍らのベンチで小休止した。




 稜線上の遊歩道を東に向かう。イノシシが掘り返したらしい真新しい跡の残るところが
あり、気持ちよい広葉樹林下を進む。


 北に下るじごく沢への分岐を過ぎ、次のピーク、標高160mの八俵山に上がる。

 「城郭としての高麗山(こまやま)」の案内板があり、ここは相模湾から相模平野一帯
を見渡せることから古くからの軍事上の要衝で、上杉持房が関東公方の足利持氏を討伐す
べく陣を構えたのが最初で、のち北条早雲が上杉顕定を討伐の際には、この山に立てこも
り、上杉謙信が小田原城侵攻の際にも、陣を構えて北条氏康と交戦したという。

 八俵山から高麗山山頂は近い。標高167.3mの山頂には、タブノキやスダジイなどに
囲まれた広場があり、説明板に、「奈良時代のころ、高句麗(こうくり)が唐(とう)、
新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に難を逃れた高句麗王族の高麗若光(こまじゃっこう)
は日本に帰化してこの山の麓の化粧坂辺りに住んだことから、この地が高麗と呼ばれるよ
うになった」と記されていた。


 ちなみに、埼玉県日高市の高麗(こま)神社のサイトによれば、高麗若光はのち、武蔵
国に新設された高麗群の首長として赴任し、関東や駿河、甲斐などから移住した高麗人と
ともに土地の開拓にあたり、没後、高麗明神として祭られたのが高麗神社の創建となった
とか。高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目だという。

 高麗山からの下りは男坂と呼ぶ急斜面となる。長い石段や木の段が幾つも続き、どんど
ん高度は下がる。20分足らずで、山麓の高来(たかく)神社に下った。


 江戸時代までは高麗寺に属し、明治元(1868)年の神仏分離令により高麗神社とな
り、明治30年に高来神社と改称したという。高麗山を背にした境内には、スダジイとヤ
ブニッケイが一体化した珍しいシイニッケイの古木があり、東郷平八郎書の大きな忠魂碑
も立っていた。モミジの新芽も色鮮やか。


 高麗二丁目の住宅地を西南に進んで旧東海道に入る。JR東海道線のガードをくぐると
松並木が数本残っていた。


 東海道大磯宿の江戸側の簡易防御施設だった江戸見附跡を過ぎ、国道1号に合する。

 和紙ちぎり絵展を開催中の「はまひるがお」という店に入り、低温調理の中川詮美さん
の、安心できる食事や生活のことを、NPO大磯福祉コミュニティの方に伺う。

 JR大磯駅には15時36分に戻った。

(参加 9人、天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 平塚、歩行地 大磯町、
 歩数 14,400、累積標高差 約680m)




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