あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

奈良・唐招提寺から平城宮跡へ

2010-05-15 23:24:52 | 奈良を歩く
 2010年4月21日(水)

 昨年秋に10年がかりの解体修理を終えた、唐招提寺金堂を拝観しようと、近鉄
橿原線の西の京駅に降りました。

 線路の東側を北へ、10分足らずで唐招提寺の玄関、南大門を入ります。正面に
堂々と立つのが、平成の大修理を終えた金堂、わが国現存最大の天平建築です。


 金堂の東北に2棟の校倉(あぜくら)造りの建物が残っています。経蔵と宝蔵、
これは経蔵だったと思います。


 新緑に覆われた広い境内の東北部にあるのが、聖武天皇の招請に答えて唐か
ら来日してこの寺を開山した鑑真和上(がんじんわじょう)の御廟(墓)です。

 鑑真和上は、この寺で天平宝字7年(763)、76歳にて世を去りました。
 
 御廟前に、和上の故郷・揚州から贈られた瓊花(けいか)が植えられ、例年なら
可憐な白い花を咲かせるころなのですが、今年は春先の天候不順で、まだ開花
前でした。   


 御廟の南にある新宝蔵に入り、国宝である金堂の鴟尾(しび)や、重要文化財の
仏像など17点ほかを拝観し、唐招提寺を後にしました。

 寺の東南端で、南北に流れる秋篠川を渡り、左岸沿いの自転車道を北に向かい
ます。


 1.5㎞ほど進んで川を離れ、近鉄奈良線の踏切を渡り、東側一帯に広大な草
地が広がる、平城宮跡に入りました。

 まず、北東にある平城宮跡資料館に入ろうとしたれ、「平城宮遷都1300年祭」
(4月24日~11月7日)のオープンを3日後に控え、休館中でした。

 それではと、南側中央部に完成している朱雀門に向かいます。平城宮跡の南
側を、近鉄奈良線が走っています。


 朱雀門のすぐ北に、新しい踏切が完成していたのですが、1300年祭までは使
えないのか閉鎖されていて、東側の既存の踏切を回って朱雀門に行きました。

 平城宮の入口にあたる、南側から見た朱雀門。

 この左手には、平城京歴史館があるのですが、これも閉鎖中、館の外に、平城
遷都1300年祭を機に復元した、遣唐使船が展示されていました。

 全長約30m、マスト高約15mで、当時のものを原寸大に復元したようですが、
このような小さな船で唐まで航海するのは、さぞかし大変だったろうと想像され
ます。

 渡った近鉄線の踏切の南側は兵部省跡。兵部省は奈良時代の官庁のひとつ
で、兵士、兵器、軍事施設の管理や、武官の人事などを担当した部署です。礎
石などが復元されていました。


 平城宮の中央部に戻ると、3日後から運行を開始する「ハートフルトラム」と呼ぶ
観覧者運搬用の電気自動車が、試運転を始めたところでした。

 
 ハーフトラムの運行ルートの北側が、1300年祭の目玉施設ともいえる、完成
したばかりの第一次大極殿。この日はまだ、そばに行くことはできませんでした。

 手前のテントは、オープンセレモニーのための施設のようです。

 第一次大極殿の東側は、第二次大極殿があったところ。その南側にある第二次
朝堂院跡。


 第二次朝堂院跡に上がると、西にアンテナ塔の林立する生駒山が望まれます。


 そして東には、大仏殿や若草山などが見えています。


 広い草地のあちこちに、1300年祭に向けた、飾り物が見られました。


 復元された第一次大極殿の南側に、一部復元された第一次朝堂院の建物と
塀が見られます。


 このあと、平城宮跡の東南にある、東院庭園に向かいました。 (続く)
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京都・仁和寺から平野神社へ

2010-05-14 22:46:17 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 京都・仙洞御所の参観を終えて昼食後、洛西といわれるあたりの寺社のひと
つ、仁和寺(にんなじ)前までバスで行き、御室桜(おむろさくら)で知られる仁和
寺に入りました。

 境内にたくさんある御室桜はすでにかなり散っていましたが、まだ咲いている
花もありました。ところが、デジカメのモードダイヤルが動いてしまったのか、撮
ったサクラはみな露出オーバー、ご覧いただけるようなのがありませんでした。

 花見を終えて回った御影堂(みえどう)。この後は撮れていたので紹介します。


 国宝や重要文化財の並ぶ霊宝館を拝観し、境内をあちこち回った後、東側の
山門を出て、仁和寺を後にしました。


 東隣には五智山蓮花寺(れんげじ)があり、本堂の横に古い石仏が並んでいま
した。


 蓮花寺から北東へ、苔寺で知られる龍安寺前を通過し、立命館大学の南にある
等持院(とうじいん)に行きました。

 等持院は、暦応4年(1341)、将軍・足利尊氏が夢窓国師(むそうこくし)に依
頼して、衣笠山の南麓に創建し、足利将軍歴代の菩提所になったところ。特に
庭園は、夢窓国師作の三大名園のひとつとのことなので、拝観しました。

 書院からの眺めです。


 書院の一室。




 書院から庭園に下りて回ることもできるので、回遊してみました。

 庭園の中心は、草書体の「心」の寺をかたどった心字池です。




 等持院の拝観を終え、京福電鉄の終点、北野白梅町駅そばから北に進んで、桜
の名所として知られる平野神社に入りました。


 境内には、珍種10種と呼ばれる、珍しい桜が10種類植えられています。その中
で見ごろだった桜を幾つか紹介しましょう。 これは妹背(いもせ)という桜。


 濃い赤色の桜は、突羽根(つくばね)です。


 緑色の花びら、御衣黄(ぎょいこう)桜。
 

 鬱金(うこん)です。


 こちらは平野撫子(ひらのなでしこ)。


 雨上がりで、時刻も17時近かったので色はいまひとつですが、ほかでは見た
ことのなかった桜も見ることができました。
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京都・仙洞御所を参観する

2010-05-12 23:17:58 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 新年早々に申込みをして抽選で当選した、京都・仙洞御所(せんとうごしょ)を、
11時から参観しました。

 場所は、京都市街の中心、京都御苑の一角、京都御所の東南にあり、周囲は
京都御所と同様、築地塀(ついじべい)に囲まれています。

 御所は、たび重なる火災にあい、わずかな建物を残すのみですが、その代わり
独特の宮廷庭園の姿をとどめており、スケールの大きな池泉式回遊庭園として、
評価は高いようです。

 あいにくの冷たい雨の日でしたが、一緒の参観者25名ほどが、約1㎞の庭園
を1時間ほどかけて、宮内庁職員の案内で回りました。

 西側にある表門から入った正面にあるのが、大宮御所常御殿(つねごてん)車
寄(おくるまよせ)と呼ぶ玄関口です。
 

 表門と常御殿の間、南側の広場には、大きな松が枝を広げていました。


 南庭から見た大宮御所常御殿。大きな建物はここだけでした。

 
 案内の宮内庁職員に従い、御所内を回ります。北池の周囲は新緑がいっぱい。


 池の周囲にある、このような園路をめぐります。


 北池の北西端、阿古瀬渕(あこせがふち)と呼ぶあたり。


 阿古瀬淵にかかるのが六枚橋。切石6枚を3枚ずつ2列に並べ、つなぎの部分に
短い橋脚を建て、やや反りを持たせています。


 北池の一角からの眺め。


 南池の中ほどに中島があり、中島を結ぶ橋のひとつ、八ッ橋で、上には藤棚が
かかっていました。


 花咲くモミジ。


 中島へのもう一つの橋、土橋です。


 南池の西側には、州浜(すはま)あるいは大浜ともいう広がりがあり、粒の揃っ
た楕円形の石が一面に敷き詰められています。


 南池の南端から見た州浜と八ッ橋。


 中島にかかるもう一つの橋。 


 南池の西側に柿本社(かきのもとやしろ)という神社があり、万葉の歌人・柿本
人麻呂が祭られています。


 庭園をほぼ一周して北池の西に回ると、又新亭(ゆうしんてい)の中門の横を
通ります。


 こちらが又新亭、かやぶき屋根入母屋造りの建物は茶室です。


 又新亭の北側にあるくぐり門を抜けて、常御殿車寄の前に戻り、約1時間の
参観を終えました。

 ちなみに、この大宮御所のほか、京都御所、修学院離宮、桂離宮などの参
観については、宮内庁参観案内 をご覧下さい。 
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松久駅周辺をカントリーウオーク(埼玉)

2010-05-11 21:11:09 | カントリーウオーク
 2010年5月8日(土)

 さわやかな五月晴れに恵まれたこの日、埼玉県内を中心にカントリーウオークを
楽しんでいるグループの第173回例会を開催した。

 ユニークな建物で無人のJR八高線(はちこうせん)松久駅(まつひさえき)に集ま
った14人は、4組に分かれて10時18分にスタートした。

 ==甘粕から猪俣の社寺へ==

 商店もコンビニもない閑散とした駅前を南へ、甘粕集落の住宅地を抜けて平地林
の山すそに入ると、八重桜の花びらが、じゅうたんのように土の道に積もっていた。


 周辺の林や山は、色濃くなってきた新緑がいっぱい。ところどころにフジの花が
彩りを添える。


 緑陰の草の道を進んで車道に出て、多宝寺に向かう。日当たりのよい台地に、ブ
ルーベリーの畑があり、白い花がちょうど見ごろ。

 ブルーベリー畑は、この先に何か所もあり、美里町(みさとまち)の特産品のようだ。

 多宝寺の前には、ボタンやレンゲツツジ、ヤマツツジなどが鮮やかな彩りを見せ
ていた。

 甘粕集落を東に抜け、天神川を渡る。きれいな流れの両岸には、ナノハナがたく
さん咲いていた。


 普門寺古墳群を目指して広葉樹林の中を上がる。しかし途中から踏み跡ははっ
きりしなくなり、竹やぶをかき分けて進み、横断する1車線の車道に出た。古墳群
の標識を探したが見つからない。

 緑陰の車道を西に回り込んで下ると、猪俣の普門寺があった。

 創建は鎌倉時代の承元4年(1184)、武蔵七党の猪俣小平六邦憲によるもの。
現在の本堂は明治26年(1894)の再建という。

 境内のフジが見ごろ、本堂左側には、首都圏では貴重という四十九院仏像(すべ
ての如来、菩薩、明王、天が揃う)が並んでいる。


 賽銭(さいせん)箱がないのでお参りしただけで出ようとしたら、ご住職の奥様が
本堂を開けて、「お茶をどうぞ」と声をかけて下さった。

 それではと本堂に上がって参拝し、お茶と、タケノコのキムチ煮をいただく。欄間
には天女の像などが刻まれ、左右のふすまには、幾つもの絵図が並んでいる。

 ここでは賽銭箱は昔から無く、檀家の方からの芳志も、奥様が来られて40数年
の間に2回しかいただいてないのこと。2人のお子様とも僧侶で、長男はこの寺で、
次男は東京・練馬区の寺に奉職されているとのことだった。

 思いがけずのお接待をいただき、厚く御礼申し上げ寺を後にする。


 麦の穂の伸びた緩やかな丘陵に上がり、何台ものラジコン飛行機を飛ばすグル
ープの横を通過、ネギ畑の間を過ぎ、ポピーがいっぱい咲く畑の横に回る。



 ポピー畑の近くに行くには、緑化協力金200円を支払う必要があるが、回りから
見えるので入らず、そばの高台にある昼食地の高台院に12時15分に着いた。

 高台院明王寺の開祖は、地名となっている猪俣氏といわれるが、開山年次は不
明とのこと。

 寺は無住で、平成19年11月に改築を終えたという新しい本堂のぬれ縁を借り、
眼下のポピー畑や周辺の新緑などを眺め、さわやかな風を感じながら昼食をする。

 ==遺跡の森公園を抜ける==

 昼食を済ませ13時15分に出発、境内南側にある武蔵七党の一党、猪俣氏とし
て勇名をはせた猪俣小兵六範綱(のりつな)の墓に回る。

 毎年、8月15日の夜、小兵六とその一族の霊を慰めるため、この墓地と前方の
山に百八灯が点される「猪俣の百八灯」は、国の無形文化財になっているという。

 猪俣集落に入り、正円寺と二柱神社へ。正円寺には、永禄年間(1558~)と
天正年間(1573~)の鰐口があることが記されていたが、本堂には下がっていな
かった。隣接する二柱神社は、堂々たる造りの社殿である。


 集落の中ほどに小公園があり、「田舎の駅 丸八酒造跡地」の標識が立っていた。

 国道254号バイパスだろうか、一部完成した広い道路を通過し、大沢小のそばの
木陰で小休止する。

 天神川左岸沿いに500m余り進み、大きな建物の横から台地へ。国道254号を
横切り、さらに上がって遺跡の森総合公園に入った。

 「遺跡の森館」という展示施設のほか、体育館や武道館、町民センター、中央公
民館、広いグランドやテニスコートなどがある。


 北側のアカマツや広葉樹の森の中には、「木部山古墳群」と呼ばれる古墳が幾つ
か残っている。

 北側に下ると、四国八十八か所お砂踏み霊場や、曼陀羅(まんだら)塔のある真
東寺だが、帰りの列車の都合で寄らず、境内を通過するだけにした。


 この地に生まれた幕末の優れた指導者で、関流(せきりゆう)算術の大家として知
られる小林喜左右衛門良匡(よしまさ)のことを記した「関流算術の碑」の前を過ぎれ
ば駅は近い。出発地の松久駅に、15時ちょうどに着いた。

 途中で記念撮影をしなかったので、最後にユニークな駅舎の前に並んだ。

(天気 快晴後晴、参加 14人、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 本庄、寄居、歩行地
 美里町、歩数 18,100)
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山梨百名山、釈迦ヶ岳ハイキング

2010-05-09 23:05:44 | ハイキング
 2010年5月9日(日)

 昨日に続き好天に恵まれた今日、軽いハイキングを楽しむグループの山行で、
山梨県笛吹市にある釈迦ヶ岳(1641m)に登りました。

 8時にJR五日市線 秋川駅前を出発し、2台の車に分乗した13人は、圏央道
から中央自動車道に入り、河口湖ICで下り、河口湖北側の大石公園で休憩し
ました。

 大石公園からの富士山。今日は快晴ながら、ちょっと霞んでいます。


 近くの交差点から北に伸びる新しい県道719号に入り、富士河口湖町と笛吹市と
の境界を、3月27日(土)に開通したばかりの全長2600㍍あまりの若彦トンネル
で抜け、笛吹市芦川町に入り、芦川沿いを上がって、9時50分に日向坂峠(別名:
どんべえ峠)に到着しました。

 峠の標高はおよそ1450m、釈迦ヶ岳までは標高差約200mの上りです。 


 今回のチーフリーダーNさんから挨拶と注意があり、10時過ぎに出発しました。


 広葉樹林の多くはまだ芽吹き前で、下草にはスミレがあちこちに咲いています。
木の梢(こずえ)では、シジュウカラが元気なさえずりを聞かせてくれました。


 ひと上りしたところで小休止。厚着の人は1枚脱ぎました。


 稜線をさらに上がると、最後のピークが見えたきました。かなりの急登が予想
されます。


 地図上、ほぼ半分と思われるところが、標高1562.4m三角点の府駒山。
芽吹き前ですが木が茂っていて、展望は利きません。


 さらに緩やかな上り下りが続き、南側の稜線の上に、富士山が姿を現しました。


 先ほど見えた最後のピークの下まで来て、いよいよ急登が始まります。


 途中に3か所、太いロープの張られたところがあり、岩やロープや枝ににつか
まって乗り越えました。


 狭い山頂に到着、大石がゴロゴロしていて広場はありませんが、360度の大展
望が得られ、上りの苦労が報われました。前方(西)は、残雪の南アルプス連峰。


 南には富士山が、東にはアンテナ塔の見える三ツ峠山や、スタートした峠から登
れる黒岳など、北には奥秩父の山並みや、ちょっと霞んだ残雪の八ヶ岳連峰などが
一望、北側眼下には、甲府盆地の家並みが広がっていました。


 山頂の一角に咲くサクラ。何ザクラか分かりません。


 一緒に食事できるスペースはないので、岩場の思い思いの場所で昼食をしました。
食事を終えたころ、ふと上を見上げると、太陽の回りに日輪というのか、にじがかか
っていました。皆、初めて見る光景です。

 ゆっくりと展望を楽しみ、記念撮影後に下りにかかります。


 下りは、往路を戻ります。まずは最後のピークの急降下へ。


 途中で2,3度小休止をしてゆっくりと下って行くと、車で上がってきた林道
が見えて来ました。


 日向坂峠には、13時46分に戻りました。帰路、すぐ下にある「すずらんの里」
に寄ったのですが、白樺林の下に広がるスズランはまだ開花前、代わりにピン
クのイカリソウがあちこちに咲いているのを眺め、すずらんの里を後にしました。

 【コースタイム】日向坂峠10:02-府高山10:37ー釈迦ヶ岳(昼食)11:25
 ~12:30ー府高山13:15ー日向坂峠13:46

 (天気 快晴後晴、参加 13人、距離 3.7㎞、累積標高差 約530m、地図
 (1/2.5万) 河口湖東部 歩行地 笛吹市)

 なお、スズランの見ごろとなると予想される5月末に「すずらんの里」で、『すず
らんの里祭り』が開催されます。詳細にについては、下のWeb pageをご覧下さい。

http://www.city.fuefuki.yamanashi.jp/kanko/kanko_cal.php?date=201005&id=3041

 
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相国寺から京都御苑へ

2010-05-07 21:41:46 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 この日は11時から、京都市街の中心、京都御苑の一角にある仙洞御所(せん
とうごしょ)の拝観を申し込んであったので、その前に、近くの相国寺(しょうこくじ)
と京都御苑を回りました。

 相国寺は、京都御苑の北側にあり、足利義満が創建した禅宗五山のひとつで、
下の図のように広い境内に、多くの堂塔が並んでいます。 


 これは宝塔。


 背の高いアカマツの向こうの大きな建物は、本堂に当たる法堂。


 東北の隅にある飛天閣と呼ぶ美術館に向かう両側は、みずみずしいモミジの新緑
が続いていました。


 モミジの下は、やわらかなコケに覆われています。




 秋のような彩りのモミジも。


 飛天閣の入口左手には、大きなソテツもありました。


 法堂の北側に回りました。法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進による
ものです。


 法堂の東側にある鐘楼。


 南側に並ぶ同志社大の、幾つかのレンガ造りの建物の間を南進し、京都御苑
に入ります。

 京都御苑は、京都御所や、このあと拝観する仙洞御所を含む約65haの、緑が
いっぱいの国民公園。明治2年(1869)に御所が東京に移るまで、約200軒の
公家屋敷や宮家があったところです。

 園内北側に、シダレザクラが咲き残っていました。

 東の方に回ると、皇女和宮誕生の地といわれる橋本家跡の表示がありました。

 和宮は、弘化3年(1846)にこの地で生まれ、14歳までここで育ったとか。
有栖川宮との婚約を破棄され、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁したことは
よく知られたとおりです。

 近くには、学習院跡の表示もあります。

 学習院というと、東京・目白がすぐ浮かんできますが、この地は、安永8年(1779)
に皇位を継いだ光格天皇が公家の教育振興に取り組もうと考たのが発端で、弘化4
年(1847)に開講したとのことです。

 京都御所の周囲は、高い土塀に囲まれていますが、ここは内部に入る門のひとつ。

 普段は閉ざされたままのようです。

 こちらは、このあと拝観する仙洞御所の長い土塀。


 塀の中にある八重桜が、花を見せていました。
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矢田丘陵の古寺をめぐる②(奈良・大和郡山)

2010-05-06 21:39:59 | 奈良を歩く
 2010年4月19日(月)〈続き〉

 りっぱは瓦屋根の民家の横を抜けて、広い境内の矢田寺(やたでら)に入る。

 正式には金剛山寺(こんごうせんじ)といい、天武天皇2年(673)に、天皇の
勅願により建立されたと伝えられ、中世からは矢田地蔵の庶民信仰が広がり、
江戸時代には大阪からの参詣(さんけい)者でにぎわっったという。

 境内には石仏が多く、鎌倉時代後期のものと伝わる「味噌なめ地蔵」は、口に
味噌を塗ると味がよくなると伝えられているという。


 本堂の左手、閻魔堂(えんまどう)と南僧坊の間を上がると、1周4.5㎞の四国
八十八か所霊場めぐりができるが、1時間半ほどかかるようなので、少しだけ回
って戻った。


 本堂から真っ直ぐの、東に下る階段を下まで下りて、予定の道と違うと分かり、
本堂前まで引き返し、南僧坊の横から南に向かう。

 車道が左カーブするところで、駐車道の上を真っ直ぐ進む土の道に入って竹林
を抜け、ヒノキ林をトラバースする。



 木の段を上がり、ミツバツツジがたくさん咲くところを過ぎ、さらに木の段を上が
り、国見台と呼ぶ展望台のところに出た。


 少し霞んではいるが、奈良市から大和郡山市、さらに桜井市から橿原市へと広
がる奈良盆地の町並みと、その向こうに連なる山並みなどの展望がよい。

 そばにベンチがあり、正午を過ぎていたので、ここで昼食をした。

 幅広く歩きやすい道をさらに南へ向かう。


 タムシバやウワミズザクラの咲く林間を進み、標識に従い急坂を少しだけ上が
って松尾山山頂へ。

 アンテナ塔の立つ松尾山放送所の建物の回りは、金網に囲まれ入れない。西
側に回ると、標高315.4mの二等三角点があるが、樹木が伸びていて展望は
利かない。


 建物の前から南に急坂を下る。峠のようなところで、白石畑への標識とは反対
側の急坂を下って行くと、松尾寺(まつおでら)の三重塔の横に出た。

 松尾寺は、「日本書紀」の編さん者、舎人親王が養老2年(718)に、日本書紀
の完成と42歳の厄除けを祈って建立したと伝えられているという。いまも厄除け
祈願の寺として、参詣する人が多いようだ。

 本堂は国の重文、ソメイヨシノは葉桜に変わり始めていたが、モミジの淡い新緑
がよい彩り。

 階段を下って山門を出て、折り返すように東に向かい、大和小泉駅まで伸びる
県道123号へ。


 静かなたたずまいの山腹や、正面の町並みなどを眺めながら進むと、八重桜や
ハナズオウの咲く連光寺があるが、山門に「入山お断り」の表示が出ていた。

 寺の前からは、左を回る広い車道になるが、まっすぐな旧道の細道を上がり、
山田町の古くからの民家の間を下り、カシなどの常緑樹の多い杵築(きつき)神
社に寄る。


 真っすぐに見下ろせる道に向かって進み、矢田南小前を過ぎる。2つ目の信号
を左折して、県道9号を600mほどで、慈光院である。

 慈光院は、寛文3年(1663)、大和小泉藩の藩主、片桐石見守貞昌(いわみの
かみさだまさ)(石州)の建立で、茶道石州流発祥の地だという。

 駐車場前から石敷きの坂を上がり、山門を入って林間を曲がると、かやぶきの
楼門の先に、これもかやぶき屋根の書院がある。

 玄関で千円の拝観料を払って上がり、書院に回って抹茶と和菓子をいただきな
がら、よく手入れされた庭を拝観する。

 庭に下りて、植え込みの間も回れるようになっていて、緑したたる新緑と老松、
ツツジや八重桜の彩りなどに目をひかれた。

 ゆっくり拝観して寺を出て、富雄川沿いの古くて狭い家並みを南に向かう。
町屋の多くには、2日前に奈良市の「ならまち」で見かけた、身代り猿が下がって
いた。

 角を曲がったところに、「庚申(こうしん)さん」で知られる金輪寺があった。

 農業の神で、ボケ防止の神でもあるようで、奇数月の庚申の日には、かなり賑わい
そう。

 富雄川を渡れば駅は近い。JR大和路線(関西本線)の大和小泉駅に15時30分
に着いた。

(天気 曇後晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 大和郡山、信貴山、歩行地
 大和郡山市、斑鳩町、歩数 31,200) 
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矢田丘陵の古寺をめぐる①(奈良・大和郡山)

2010-05-05 23:13:16 | 奈良を歩く
 2010年4月19日(月)

 朝、近鉄奈良線の新大宮駅から乗車し、大和西大寺駅で近鉄橿原線に乗りか
え、近鉄郡山駅で降りた。8時36分にスタートして、駅北側のやや狭い車道を西
に向かう。

 歩道は無いが車は結構通過し、自転車で通学の高校生が次々に追い抜いて行
く。家並みが途切れた県道249号との交差点際には、「奈良西の京斑鳩(いかる
が)自転車道」の大きな案内図があった。

 その先の富雄川を渡って右折、すぐに左折して外川八幡に上がる。小さな社殿
だが、明治12年(1879)に奉納された、きれいな武者絵が掲額されていた。


 自転車で追い抜いていった生徒の行き先、郡山高専の東に、こんもりした丘陵
があり、「本田忠常公・祿姫廟所」と記されていたので上がってみる。

 「歌ヶ崎廟」と呼び、本田忠常(1661~1709)は郡山藩主、江戸時代の大名
の墓碑としては模範的なものとか。碑文は大学頭林信篤によるものという。そばの
八重桜が見ごろだった。

 高専の北を回り込み、北西の丘陵に広がる奈良県立大和民俗公園に入る。

 新緑がいっぱいの園内には、八重桜やツツジが色鮮やかに咲く。民俗博物館が
あるが、月曜日なので休館だった。


 園路を北西に少しずつ上がると、県内から移築された民家を集めた古民家集落
が2か所あり、やはり閉館で中には入れないが、多くの民家は園路から眺めるこ
とができる。

 手前の町家(まちや)集落には国重文や県文化財の住宅があり、その先の国中
(くんなか)集落には、県文化財の住宅や土蔵などがあった。




 民俗公園を北西端に抜け、「子どもの森」に向かって長屋門の多い集落を抜ける。
林間を緩やかに上がる1車線の車道を進み、「子どもの森」の一角にある、静かな
2つの池のそばに出た。



 池のほとりは芽吹いて間もない淡い新緑に覆われ、八重桜が彩りを添える。2つ
の池の間を通る近畿自然歩道に入り、林間の石畳を上がって南に向かう。

 ウグイスが間近でさえずり、新緑が気持ちよい。


 狭い峠を下って落ち葉道を進むと、石の古い道しるべがある。その先にも何か
所も残されていて、この道が古くからの街道だったことが知れる。


 池から1㎞足らずの山腹に、無住の東明寺(とうみようじ)があった。持統天皇
(在位690~7)のころ、天武天皇の皇子、舎人(とねり)親王が開創した古寺だ
という。

 いまは静かなたたずまいの境内、社殿には色鮮やかな龍などの彫刻が施され、
石段を下ると小さな弁天池があった。

 寺の周辺には数戸の民家があり、それを過ぎると雑然とした竹林の上り下りと
なる。

 東に回りこみ、林が切れると奈良盆地の展望が開けてきた。


 「県立矢田自然公園」の標識の横を上がり、ウグイスやキジの鳴き声を聞きな
がら進む。


 太いクヌギに、みごとな花が下がっていた。〈続く〉

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古道紀行・法隆寺駅から当麻寺駅へ(奈良)

2010-05-04 19:41:07 | 奈良を歩く
 2010年4月18日(日)
 関西のカントリーウオークグループの、Tさんが続けている「古道紀行」の第147
回例会に参加した。

 今年の古道紀行の企画は、小田宅子(いえこ)の『東路日記』の、大和路の旅の
再現で、この日のテーマは「当麻(たいま)への道-中将姫伝説を訪ねて」である。

 法隆寺駅に集まったのは25~6人ほど。A3版いっぱいに収めた地形図のコピー
をもらい、コース説明を受け、9時45分に出発した。

 商店街を西に向かい、車道の下をくぐって北へ、興隆四丁目から田んぼの間を抜
け、斑鳩町(いかるがちよう)役場前で国道25号を斜に横切る。奈良街道とも当麻
街道とも呼ぶ旧道を少しで、龍田(たつた)神社に入った。

 社殿はコンクリード製のどっしりした造り。境内にはクスノキ大明神として祭られた
ご神木のクスノキの大木が、のびのびと枝を広げ、能楽シテ方の「金剛流発祥之地」
の石碑が立っていた。


 「日本一たい焼」の大きな看板のある店の横で国道25号を横断し、南側の吉田
寺(きちでんじ)へ。

 修行と学問に生きた偉才、恵心僧都(えしんそうず)こと源信が、永延元年(987)
に開基したと伝わり、「ぽっくり寺」とも呼ばれ、本尊に祈願すれば、家族に下(しも)
の世話をやかせずに極楽往生できるという。

 本堂右手の多宝塔は、寛正4年(1463)建立、奈良県域では数少ない多宝塔で、
国重文である。境内の八重桜が見ごろだった。


 南西に向かい、レンゲが一面の田んぼや、清楚な花咲く梨畑の間を進んで、龍田
川沿いに出る。

 対岸に見えるこんもりした三室(みむろ)山に向かって北側の橋を回り、平安の歌
人、能因法師や在原業平の歌で知られるその三室山に上がる。

 ソメイヨシノは葉桜になっているが、八重桜は満開。標高82mの山頂からは、東
側の家並みや山並みが一望できる。山頂の東屋のそばには、能因法師の供養塔
と伝えられる五輪塔があった。

 眼下に見える王子の町並みに向かって西に下り、大和川の昭和橋を渡る。


 ナノハナの咲く左岸堤防を500m余り進み、JR関西本線の南にある舟戸神社
に入る。

 この社地は、聖徳太子建立の四十六か寺のひとつ、西安寺の旧跡として注目さ
れ、礎石や瓦のかけらなどが発見されているとのこと。確かに境内や近くに、瓦の
かけらが幾つか散見された。

 近鉄田原本線の踏切を渡り、葛下川沿いを少しでJR和歌山線の西に回り、国道
168号沿いにある達磨寺(だるまじ)へ。正午を過ぎたので、ここで昼食をすること
になった。

 達磨寺は、推古天皇(592~628)の発願で建立されたと伝えられ、放火や兵火
などで何度も焼失したが、寺内には多くの寺宝、文化財が多いという。


 白木の本堂は、改築直後らしく新しい。参拝に本堂の階段を上がったら、ご住職
が正面の扉を開けて下さり、中に入って拝観する。

 堂内には、本尊の木造千手観音像、いずれも国重文の、木造達磨大師像↑と
木像聖徳太子像などが祭られ、正親町天皇綸旨(おおぎまちてんのうりんじ)や、
徳川家康朱印状、聖徳太子画像、達磨大師画像なども展示されていた。

 広い境内にはほかに、大塔宮の家来、片岡八郎公の墓、聖徳太子の愛犬・雪丸
像、一夜竹、聖徳太子と達磨大師の問答石など、幾つもの遺跡が残っていた。


 山門前で記念撮影をして午後のコースに向かう。後半は、まだかなりの距離が
あるという。

 国道168号の西に回り、「太子道(たいしみち)」と呼ばれる聖徳太子ゆかりの旧
道を主に進む。柿本人麻呂の歌にも読まれた芦田池を通過、推古天皇の乳母ゆか
りの乳垂(ままたれ)地蔵尊の近くには、石の基壇の残る尼寺廃寺(にんじはいじ)
跡があった。


 西名阪自動車道の下を抜けて、武烈天皇陵の南にある志都美(しずみ)神社で
休憩する。

 志都美神社は、弘仁4年(813)藤原鎌足の孫により創建された延喜式内社
(えんぎしきないしゃ)。境内には、明治13年(1880)にコレラが流行したときに、
氏子の祈願により村内に一人の患者も出なかったことを喜んだ、珍しい記念碑が
ある。

 豊富な照葉樹林に囲まれた社そうは、県の天然記念物。社殿前のシダレザク
ラが見ごろだった。

 境内には、インドシナ原産で水に沈むという珍しい竹、ホウライチクがあり、社務
所の庭には、葉が金魚の形をしたキンギョツバキとが、花を開いていた。

 葛下川の支流沿いを東に進み、香芝市の住宅街にあるスーパーでトイレ休憩。
この先まだ3㎞前後あるので、一部の人は近鉄大阪線の二上山(にじょうさん)駅
でリタイアした。

 古い家並みの残る穴虫東の狭い通りを抜け、国道165号をくぐる。新緑に覆わ
れた二上山の、西側山すその高台からは、家並みの向こうに、霞んではいるが、
畝傍山(うねびやま)↓や耳成(みみなし)山が遠望できる。


 道の駅「ふたかみパーク當麻」で、最後の休憩。午後は気温が上がり暑さを感じ
るので、多くの人がソフトクリームでのどを潤した。




 新緑の山並みを眺めながら當麻小の横を進み、謡曲「当麻」や中将姫で知られ
る當麻寺(たいまでら)に入った。

 當麻寺は、この地の豪族當麻氏が天平年間初頭(730ころ)、氏神として創建
したとか、また別の説もあるらしい。謡曲「当麻」は、当麻曼陀羅の縁起に基づき
念仏の効力を説いた曲。足利時代、世阿弥は、主人公の尼の名を中将姫として
「当麻」を作曲したという。


 広い境内には、いずれも国宝の本堂や金堂、講堂、西塔と東塔、日本最古とい
われる鐘を吊す鐘楼などがあるが、16時を過ぎたので、ゆっくり拝観できなかっ
たのが残念だった。

 境内で散会となり、土産物店や落ち着いたたたずまいの住宅などの並ぶ門前
の通りを駅に向かう。

 16時41分に近鉄南大阪線当麻寺駅に着く。下り電車で橿原神宮前駅を経由
して、奈良市内の宿に向かった。

(天気 快晴後曇、距離 18㎞、地図(1/2.5万) 信貴山、大和高田、歩行地
 斑鳩町、河合町、王寺町、香芝市、葛城市、歩数 31,400) 
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第15回東京国際スリーデーマーチ第3日

2010-05-03 22:02:48 | 江戸・東京を歩く
 2010年5月3日(月・祝)

 東京国際スリーデーマーチ、最終日は、20㎞コースサクラルートに参加しま
した。私がスタートしたのは、8時58分でした。


 中央会場の小金井公園を、東北に向かいます。


 公園を出て、折り返すように多摩湖自転車道に入り、真っ直ぐな道を西北に
向かいます。


 私の下車駅、西武新宿線の花小金井駅前を過ぎ、小平ふるさと村のそばを通
過します。村内には、小平の古い民家や商家などの建物が移築され、観覧でき
るのですが、この時間はまだ開村前でした。


 自転車道沿いに咲くフジの花。


 こちらの民家には、アメリカハナミズキが花盛り。


 西武多摩湖線の八坂駅の先で多摩湖自転車道に分かれて左折し、東村山中央
公園の横を通過します。緑陰で休憩するウオーカー。


 南に少しで、野火止(のびどめ)用水沿いの緑道へ。


 この用水沿いも、玉川上水緑道同様、広葉樹林に覆われた林間の道が、かなり
続いています。


 西武拝島線の東大和市駅前を過ぎ、まもなくの玉川上水との合流点が、この
コースのチェックポイント。少し早めの昼食を始める人も、かなり見られました。

 ここがコースの折返し点、この先はゴール近くまで、玉川上水緑道の緑陰を歩き
ます。

 私は、さらに3.5㎞ほど進み、小平中央公園で昼食にしました。公園内にある
人工の滝です。


 公園の南側を通過するウオーカー。


 豊富な広葉樹林下の緑道は、ゴール近くまでさらに4㎞ほど続きます。


 最終日のゴールは、14時4分でした。ゴールテントで、3日間の完歩賞と、3日
間完歩回数8回目のバッヂをもらいました。


 会場の広場では、3日間の歩きを終えたウオーカーが、別れを惜しんで語り合う
輪が、幾つもできています。


 中央会場の東北には、かなり背の高い木が並び、その下では、ウオーカー以外の
人たちが、好天のゴールデンウィークを楽しんでいました。


 (天気 晴、距離 21㎞、歩行地 小金井市、小平市、東村山市、東大和市、
  歩数 32,200)
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