あるきメデス

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矢田丘陵の古寺をめぐる②(奈良・大和郡山)

2010-05-06 21:39:59 | 奈良を歩く
 2010年4月19日(月)〈続き〉

 りっぱは瓦屋根の民家の横を抜けて、広い境内の矢田寺(やたでら)に入る。

 正式には金剛山寺(こんごうせんじ)といい、天武天皇2年(673)に、天皇の
勅願により建立されたと伝えられ、中世からは矢田地蔵の庶民信仰が広がり、
江戸時代には大阪からの参詣(さんけい)者でにぎわっったという。

 境内には石仏が多く、鎌倉時代後期のものと伝わる「味噌なめ地蔵」は、口に
味噌を塗ると味がよくなると伝えられているという。


 本堂の左手、閻魔堂(えんまどう)と南僧坊の間を上がると、1周4.5㎞の四国
八十八か所霊場めぐりができるが、1時間半ほどかかるようなので、少しだけ回
って戻った。


 本堂から真っ直ぐの、東に下る階段を下まで下りて、予定の道と違うと分かり、
本堂前まで引き返し、南僧坊の横から南に向かう。

 車道が左カーブするところで、駐車道の上を真っ直ぐ進む土の道に入って竹林
を抜け、ヒノキ林をトラバースする。



 木の段を上がり、ミツバツツジがたくさん咲くところを過ぎ、さらに木の段を上が
り、国見台と呼ぶ展望台のところに出た。


 少し霞んではいるが、奈良市から大和郡山市、さらに桜井市から橿原市へと広
がる奈良盆地の町並みと、その向こうに連なる山並みなどの展望がよい。

 そばにベンチがあり、正午を過ぎていたので、ここで昼食をした。

 幅広く歩きやすい道をさらに南へ向かう。


 タムシバやウワミズザクラの咲く林間を進み、標識に従い急坂を少しだけ上が
って松尾山山頂へ。

 アンテナ塔の立つ松尾山放送所の建物の回りは、金網に囲まれ入れない。西
側に回ると、標高315.4mの二等三角点があるが、樹木が伸びていて展望は
利かない。


 建物の前から南に急坂を下る。峠のようなところで、白石畑への標識とは反対
側の急坂を下って行くと、松尾寺(まつおでら)の三重塔の横に出た。

 松尾寺は、「日本書紀」の編さん者、舎人親王が養老2年(718)に、日本書紀
の完成と42歳の厄除けを祈って建立したと伝えられているという。いまも厄除け
祈願の寺として、参詣する人が多いようだ。

 本堂は国の重文、ソメイヨシノは葉桜に変わり始めていたが、モミジの淡い新緑
がよい彩り。

 階段を下って山門を出て、折り返すように東に向かい、大和小泉駅まで伸びる
県道123号へ。


 静かなたたずまいの山腹や、正面の町並みなどを眺めながら進むと、八重桜や
ハナズオウの咲く連光寺があるが、山門に「入山お断り」の表示が出ていた。

 寺の前からは、左を回る広い車道になるが、まっすぐな旧道の細道を上がり、
山田町の古くからの民家の間を下り、カシなどの常緑樹の多い杵築(きつき)神
社に寄る。


 真っすぐに見下ろせる道に向かって進み、矢田南小前を過ぎる。2つ目の信号
を左折して、県道9号を600mほどで、慈光院である。

 慈光院は、寛文3年(1663)、大和小泉藩の藩主、片桐石見守貞昌(いわみの
かみさだまさ)(石州)の建立で、茶道石州流発祥の地だという。

 駐車場前から石敷きの坂を上がり、山門を入って林間を曲がると、かやぶきの
楼門の先に、これもかやぶき屋根の書院がある。

 玄関で千円の拝観料を払って上がり、書院に回って抹茶と和菓子をいただきな
がら、よく手入れされた庭を拝観する。

 庭に下りて、植え込みの間も回れるようになっていて、緑したたる新緑と老松、
ツツジや八重桜の彩りなどに目をひかれた。

 ゆっくり拝観して寺を出て、富雄川沿いの古くて狭い家並みを南に向かう。
町屋の多くには、2日前に奈良市の「ならまち」で見かけた、身代り猿が下がって
いた。

 角を曲がったところに、「庚申(こうしん)さん」で知られる金輪寺があった。

 農業の神で、ボケ防止の神でもあるようで、奇数月の庚申の日には、かなり賑わい
そう。

 富雄川を渡れば駅は近い。JR大和路線(関西本線)の大和小泉駅に15時30分
に着いた。

(天気 曇後晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 大和郡山、信貴山、歩行地
 大和郡山市、斑鳩町、歩数 31,200) 

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