2015年4月22日(水)
関東平野の周辺部を反時計回りに歩き続ける私のオリジナルウオーク、「関東山の辺の
道」の14回目を、昨年10月以来半年ぶりに実施した。
スタートは、前回にゴールした東武伊勢崎線の足利市駅。9時38分に出発する。
駅北口から北側を流れる渡良瀬川の中橋を渡る。
県道67号・中央通りには見頃になったアメリカハナミズキの並木が続く。
通一丁目の角に、「足利まちなか遊学館」があったので入館した。足利は古くから「織
物のまち」として栄えてきた。
展示コーナーには、結城紬(ゆうきつむぎ)を織る足踏織機、組紐をつくる組物機械↑
や、百年前の物というタペストリー↓など、織物ゆかりの品が展示されていた。
その横を北に少しで、日本最古の学校で国指定史跡の「足利学校跡」へ(参観料420
円)。
足利学校の創建は諸説があるようだが、歴史が明らかになるのは室町時代に上杉憲実
(うえすぎのりざね)が、現在国宝になっている書籍を寄進し、学長制度を設けるなどし
て学校を再興したころからとか。
天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより、「日本国中最も大にして、
最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、学徒3000といわれるほどになったという。
入徳門を入って受付を済ませ、よく手入れされた松の間を進んで学校門↑を入ると、広
い構内に幾つもの建物が目に入る。
イチョウやケヤキなどの新緑がみずみずしく、モミジもよい彩り。
正面の孔子廟(こうびびよう)↑から南庭園↓、方丈(ほうじよう)、庫裡(くり)、
木小屋、東側裏手の土蔵や北庭園、さらに西北端の歴代学長の墓、収蔵庫などを一巡して
観覧した。
こちらは方丈
学校門を出て、そばの麦とろの店↑の横を西へ、足利織物や吊し飾りの下がる店の前を
通過して次の角を北に進む。
右手には満開のヤエザクラ、フゲンゾウ(普賢象)や、茂右衛門蔵と呼ぶ安政5年
(1858)創建の土蔵↓があり、その先にも2階建ての土蔵と大きな古民家が残る。
左手小さな空き地には、「征夷大将軍足利尊氏公像」が立っていた。
その通りの突き当たりが、室町幕府を興した足利氏の居館跡で国史跡、市民からは「大
日さま」と呼ばれ親しまれている鑁阿寺(ばんなじ)である。
平安後期、源氏の祖、八幡太郎義家の子の義国、その子足利義康(足利氏の祖)の2代
にわたり堀と土塁を築いて邸宅とし、尊氏から7代前の足利吉兼(よしかね)が鎌倉時代
初期の1190年代に、邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を設立したとのこと。
約4万㎡あるという敷地の四方には堀と土塁を巡らし、東西南北にある橋を渡らないと
入れない。
太鼓橋を渡り、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建という仁王門
を入る。堀には大きなコイが泳いでいた。
広い境内はケヤキやクスノキ、モミジなどの新緑にあふれ、本堂前のシダレザクラが咲
き残る。
国宝の本堂は、正安元年(1299)の再建。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、
多宝塔、御霊殿などの七堂伽藍(しいどうがらん)を備え、東国の密教の代表的な寺とい
う。広い境内を一周して、それら堂塔を巡る。
本堂前には、樹高31.8m、目通り8.3m、樹齢550年前後と推定され、縁結び
のご神木ともいわれる栃木県天然記念物のイチョウの巨木がそびえ立つ。
校倉(あぜくら)の周辺でツツジが花開き、ヤエザクラも満開間近。
西北にある2本のクスノキが大きく枝を広げ、モミジは、赤い小さな花をたくさん見せ
ていた。
鑁阿寺を出て、北仲通を西進する。通の両側には、古い民家や商店、公衆浴場など、昭
和を感じさせる建物が残っていた。
台地の中腹にある織姫(おりひめ)神社の下に来たが、足利学校と鑁阿寺の観覧に時間
をかけたので、神社に上がるのは止め、南側の中央通りに回る。通りのそばの織姫交番は
神社のようなつくり。
そばの八雲神社の鳥居際には、高さ25m、目通り3.45mというイチョウの高木が
あり、境内の2本のケヤキも大きく背を伸ばして立つ。
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まだスタートして間もない距離ですが、写真枚数の関係でこの先は次項に続きとします。
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関東平野の周辺部を反時計回りに歩き続ける私のオリジナルウオーク、「関東山の辺の
道」の14回目を、昨年10月以来半年ぶりに実施した。
スタートは、前回にゴールした東武伊勢崎線の足利市駅。9時38分に出発する。
駅北口から北側を流れる渡良瀬川の中橋を渡る。
県道67号・中央通りには見頃になったアメリカハナミズキの並木が続く。
通一丁目の角に、「足利まちなか遊学館」があったので入館した。足利は古くから「織
物のまち」として栄えてきた。
展示コーナーには、結城紬(ゆうきつむぎ)を織る足踏織機、組紐をつくる組物機械↑
や、百年前の物というタペストリー↓など、織物ゆかりの品が展示されていた。
その横を北に少しで、日本最古の学校で国指定史跡の「足利学校跡」へ(参観料420
円)。
足利学校の創建は諸説があるようだが、歴史が明らかになるのは室町時代に上杉憲実
(うえすぎのりざね)が、現在国宝になっている書籍を寄進し、学長制度を設けるなどし
て学校を再興したころからとか。
天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより、「日本国中最も大にして、
最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、学徒3000といわれるほどになったという。
入徳門を入って受付を済ませ、よく手入れされた松の間を進んで学校門↑を入ると、広
い構内に幾つもの建物が目に入る。
イチョウやケヤキなどの新緑がみずみずしく、モミジもよい彩り。
正面の孔子廟(こうびびよう)↑から南庭園↓、方丈(ほうじよう)、庫裡(くり)、
木小屋、東側裏手の土蔵や北庭園、さらに西北端の歴代学長の墓、収蔵庫などを一巡して
観覧した。
こちらは方丈
学校門を出て、そばの麦とろの店↑の横を西へ、足利織物や吊し飾りの下がる店の前を
通過して次の角を北に進む。
右手には満開のヤエザクラ、フゲンゾウ(普賢象)や、茂右衛門蔵と呼ぶ安政5年
(1858)創建の土蔵↓があり、その先にも2階建ての土蔵と大きな古民家が残る。
左手小さな空き地には、「征夷大将軍足利尊氏公像」が立っていた。
その通りの突き当たりが、室町幕府を興した足利氏の居館跡で国史跡、市民からは「大
日さま」と呼ばれ親しまれている鑁阿寺(ばんなじ)である。
平安後期、源氏の祖、八幡太郎義家の子の義国、その子足利義康(足利氏の祖)の2代
にわたり堀と土塁を築いて邸宅とし、尊氏から7代前の足利吉兼(よしかね)が鎌倉時代
初期の1190年代に、邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を設立したとのこと。
約4万㎡あるという敷地の四方には堀と土塁を巡らし、東西南北にある橋を渡らないと
入れない。
太鼓橋を渡り、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建という仁王門
を入る。堀には大きなコイが泳いでいた。
広い境内はケヤキやクスノキ、モミジなどの新緑にあふれ、本堂前のシダレザクラが咲
き残る。
国宝の本堂は、正安元年(1299)の再建。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、
多宝塔、御霊殿などの七堂伽藍(しいどうがらん)を備え、東国の密教の代表的な寺とい
う。広い境内を一周して、それら堂塔を巡る。
本堂前には、樹高31.8m、目通り8.3m、樹齢550年前後と推定され、縁結び
のご神木ともいわれる栃木県天然記念物のイチョウの巨木がそびえ立つ。
校倉(あぜくら)の周辺でツツジが花開き、ヤエザクラも満開間近。
西北にある2本のクスノキが大きく枝を広げ、モミジは、赤い小さな花をたくさん見せ
ていた。
鑁阿寺を出て、北仲通を西進する。通の両側には、古い民家や商店、公衆浴場など、昭
和を感じさせる建物が残っていた。
台地の中腹にある織姫(おりひめ)神社の下に来たが、足利学校と鑁阿寺の観覧に時間
をかけたので、神社に上がるのは止め、南側の中央通りに回る。通りのそばの織姫交番は
神社のようなつくり。
そばの八雲神社の鳥居際には、高さ25m、目通り3.45mというイチョウの高木が
あり、境内の2本のケヤキも大きく背を伸ばして立つ。
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まだスタートして間もない距離ですが、写真枚数の関係でこの先は次項に続きとします。
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