あるきメデス

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関東山の辺の道⑭ 足利から太田・三枚橋駅まで(栃木・群馬)【続き】

2015-04-25 13:16:55 | 関東山の辺の道
 2015年4月22日(水) 〈続き〉

 足利市の中心部を東西に抜ける県道67号・中央通りの通六丁目にも、古い商家がわず
かに残っていた。


 市街地が終わる通七丁目の、山すそに見えた三宝院に寄る。


 豪壮な本堂の前に、花をいっぱい付けたモミジが新緑の彩り。


 墓地には、佐野唐沢城主藤原秀郷の子孫、足利五郎藤原行国の墓があるようだが、探す
のは止めて先に向かう。

 近くの常念寺は、コンクリート造りの本堂が台地の斜面にたち、傍らに幼稚園がある。

 足利七福神の毘沙門天が祭られていて、何年か前の正月に、七福神めぐりで参拝したこ
とを思い出す。

 創建は平安末期の康治2年(1143)と伝えられ、時宗の宗祖一遍上人(いっぺんし
ょうにん)が遊行中に荒廃した寺の再建に尽力したとか。境内には一遍上人像が立ってい
た。
        

 その先は、県道の南に平行する車の少ない旧道を進む。JR両毛線と交差するところは
いったん県道で越え、再び旧道に戻り、近くの大手神社に寄る。

 祭神は、天岩戸(あまのいわと)開きの神話で知られる天手力男命(あまのたじからお
のみこと)。こぢんまりした開放的な境内で、社殿両側のケヤキのほかに木は少ない。

 人間の手の神様として尊敬され、手を病む人や手の上達を願う者の祈願神のようで、手
の型を描いた絵馬がたくさん奉納されていた。
    

 南側に、渡良瀬川左岸河川敷にあったらしい足利競馬場の広い敷地が残り、その一角に
できた足利赤十字病院の大きな建物が見える。

 さらに旧道を進んで、町田集落の八雲神社の横を過ぎる。


 集落の西で県道に出て、北関東自動車道の下を抜けて南側の鹿島町に入り、12時17
分に鹿島神社に着いた。


 境内南側の木立の下は児童遊園地になっている。そばの、円筒状のコンクリート塊がた
くさん集められたところで昼食とした。


 12時45分に神社を後にして、集落の中を南東に進んで渡良瀬川に架かる鹿島橋際に
出る。


 橋の近くの通りのハナミズキも満開の彩り。左岸堤防には、自転車も通れる歩道が設け
られていた。

 川の中ほどが栃木県と群馬県との県境。2006年4月24日、茨城県桜川市から栃木
県二宮町(現在は真岡市)に入ったが、毎年1日ずつしか、途中2年抜けた年もあり、
10年がかりでようやく栃木県を通過することができた。


 右岸、太田市側の斜面林は淡い新緑が広がり、上流に霞むのは赤城山だろうか…。




 堤防にはナノハナが咲き競う。



 橋際にあるそば処を横に見て、只上(ただかり)町で北関東自動車道の下を抜けて県道
65号を出て、静かな旧道に回る。



 広い麦畑の横を通過して、浄水場の先で国道50号を歩道橋で越える。


 その先、富若町には熊野神社があったので参拝した。


 社殿左手の盛土の上に、文久元年(1861)銘の小さな祠(ほこら)が祭られていた。

 集落の南端付近に、養蚕農家だったのだろうか、門構えの大きな民家が目に付く。


 小さい流れのところで、変則十字路を南西に真っ直ぐ伸びる道路に入る。物流センター
の前を過ぎると、行く手右手に金山城があったという金山(239m)が望まれる。


 国道122号を横断して東部消防署の横を過ぎ、山すその旧道を南西に進む。追分交差
点で国道407号に接し、さらに旧道を進んで熊野町に入り、無量庵に寄る。


 ちょうど東武伊勢崎線太田駅の北1㎞ほどのところだが、周辺は閑静なたたずまい。墓
地のそばのフジが、たくさん花を見せていた。


 台地下の旧道を群馬大の北側まで進む。南に突き出た台地の階段を上がると嵩山神社だ
が、石段の途中に「社殿焼失の為参拝出来ません」の立て札。さらに少し上がったが、階
段最上部にロープが張ってあったので上がるのは止めた。

    
 神社敷地の西側下部へ回ると、ツツジが色鮮やかに咲く。すぐ先でV字状に折り返して
北に伸びる道は、静かな住宅街を抜けている。


 300mほどで左折して、金山町を西進する。次の十路際に、山田屋という和菓子店が
あった。

 名物という焼きまんじゅうをひとつ注文し、温かいお茶とともにいただく。焼麩(やき
ふ)に醤油だれをつけたような感じで、フワフワした独特の味わいだった。
    

 太田といえば「吞龍(どんりゆう)さん」という名は、子どもの頃から知っていた。店
の人に聞いたら、この先寄る予定だった地図上の大光院だという。道理で、地図で市街地
や周辺を見ても、吞龍の字が見当たらなかったのだ。

 八瀬川沿いに出て住宅街を北に真っ直ぐ進むと、広い境内の大光院に突き当たる。

 「吞龍様」の名で親しまれる大光院は、慶長18年(1613)徳川家康がその祖とし
た新田義重を追善するために創建したとのこと。大光院は義重の法号だという。寺領は
300石で、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所「関東十八壇林」の一寺。

 初代住職に迎えられたのが江戸・芝増上寺の吞龍上人。吞龍は庶民教育に心をくだき、
生活困窮者の子供を弟子の名目で養育し、その高徳により「子育て龍」として信仰を今に
集めているという。


 吉祥門と呼ぶ山門を入ると正面に大本堂があり、その間に吞龍上人お手植えと伝わる、
樹齢約700年の「臥龍松(がりゆうまつ)」と呼ぶクロマツの老松が、昇天する前の巨
龍のように枝を低く広げている。


 左手には朱塗り鉄筋コンクリート造りの開山堂が、本堂に近い大きな堂于を見せる。堂
内には、吞龍上人自作の尊像が安置されているという。


    

 5月5日の花祭りを控え、境内には長いテントが幾つもつくられていた。当日の境内は
大賑わいになるのだろうが、今日は参拝者もまばらで閑散としている。

 寺を出て八瀬川左岸沿いに500m近く進み、田園地帯を真っ直ぐに貫く車道を北進す
る。

 途中にはもう穂の出た小麦畑もあり、東側山すそには三枚橋病院の大きな病棟が望まれ
る。


 長手町まで進んで左折し、東武桐生線の無人駅、三枚橋駅に16時8分に着いた。


 16時36分発東小泉行き上り電車で帰路につき、3時間15分ほどかけて20時近く
に帰宅した。

(天気 晴、距離 17㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、足利北部、上野境、
 歩行地 栃木県足利市、群馬県太田市、歩数 31,400)





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コメント (2)
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