2012年2月19日(日)
JR武蔵野線沿線を歩くカタツムリ歩行、22年目の最終年となる今年の初回、通算第
211回例会は好天に恵まれた。集合はJR武蔵野線の北府中駅である。
10時5分に駅を出て、武蔵野線に平行する府中街道をこ道橋で越えて、東側の北府中
公園に入る。
ケヤキなどまだ枯れ枝のままの高木が並ぶ園内の中ほどに、動物の彫刻が飾られていた。
公園の東側を走る通りは「薬師道」と呼ばれ、国分寺の薬師堂へ通じる古代からあった
道だという。
南側の車道を越えて府中中央公園と都立農業高の広い農場との間の通りへ。農場には、
きれいにせん定されたナシやモモの古木が並んでいた。
中央公園にある陸上競技場では、練習中の高校生だろうか、何人もトラックを走ってい
る。
この通りの南側には、「木刈道(きかりみち)」の標石が立っていた。
寿町二丁目を貫く桜並木の通りを東に向かう。「桜通り広場公園」と呼ぶ小さい公園の
一角にある「童々広場」には、走る童子や蓮の池などの彫刻が並んでいる。
南の大国魂(おおくにたま)神社に通じる、ケヤキ並木が続く広い通りに入った。
画材店や焼きたてのパン店など、しょうしゃな店が幾つも見られた。
府中市役所の府中駅北第2庁舎の南で、国道20号(甲州街道)を横断する。
「梅まつり」や府中を本拠とするサッカークラブFC東京の旗の下がるケヤキの大木の
横を進むと、大魂神社の方を向いて源義家の像がある。
950年余り前、源頼義・義家父子が、欧州平定の途次、大国塊神社に戦勝を祈願し、
平定後に神社にケヤキの苗木千本を寄進したのが、このケヤキ並木の始まり。のち徳川家
康により補植され現在の姿になり、いま「馬場大門けやき並木」は、国の天然記念物にな
っているという。
通りに立って世界的な医療支援を呼びかけていた2人の若い女性に、やまさんが声をか
けたりしてさらに進み、石鳥居前に大ケヤキの立つ大国塊神社に入る。
まず、右手にあった精巧な木彫の施されている手水舎にびっくり。ほかでは見られない
精巧な造りだ。
門は改築後間もないようで、白木から匂いが感じられそうに新しい。門を入って正面の
本殿に参拝した。
本殿の北東側にある鼓楼(ころう)は、嘉永7年(1854)の再建で、府中と近隣の
17名により寄進されたのだという。
境内中ほどの道を西に抜け、宮西町五丁目に入る。小さい交差点際に大谷石造りの蔵が
残っていた。
番場公園の前や、鉄道廃線跡を活用した下河原緑道↑を横断して、片町二丁目の高安寺
に入ると、境内の紅梅がかなり開花している。
高安寺は、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれにあたるという。
まず、「南無観世音菩薩」ののぼりの立ち並ぶ南東隅にある観音堂へ。享保年間
(1716~36)に現在地に再建されたと伝えられ、桁行三間、梁真間三間の入母屋造
り。多摩地区では数少ない江戸中期の三間堂(さんげんどう)だという。
広い境内の中心にある本堂の前にりっぱな山門があり、この二つと鐘楼とが、東京都選
定歴史的建造物になっている。
山門の手前には双体道祖神があり、山門横には水子地蔵がたくさん並ぶ。
本堂の右手前には、樹高13m、幹回り26mあり、市の保存樹木になっているクスノ
キの古木が、大きく枝を広げていた。
ほかに、本堂前には佐渡産という木化石などもあり、見どころの多い古寺だった。
片町一丁目を西へ、京王電鉄線の踏切を渡り、「屋敷分北裏道」の標石の立つ三好町一
丁目の住宅地を抜ける。国道20号を斜めに横切り、「本宿北裏道」を進むと、前方に石
積みの大きな円形のものが見えてきた。
そばに行くと、西府二丁目にある今日のゴール、熊野神社の背後にある国史跡、武蔵府
中熊野神社古墳だった。
古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に築造されたもので、上が丸く下が四角の上円下方墳
(じょうえんかほうふん)。3段目の上円墳の直径約16m、下方墳の中断一辺約23m、
下段の一辺約32あるという。
熊野神社には12時18分に到着した。神社の創建は江戸初期と伝えられ、本殿は往時
のままで、拝殿は天保9年(1838)9月に改築されたようだ。
拝殿の周囲で昼食後、記念撮影をしてミーティング。事務局のDさんの話の後、この
きの創始者、やまさんから、12月の府中本町駅ゴール後の、折り返し計画を↑、さらに
山浦敬子さんから↓デンマークでの留学生活の様子などついて話があり、13時近くに散
会となった。
(天気 快晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 府中市、歩数
6,800)
散会後、神社の西側から北に伸びる七小通りを進んで、14時5分にJR武蔵野線と
中央線との交差する西国分寺まで歩いて、帰途についた。(ゴールからプラス4㎞)
にほんブログ村
JR武蔵野線沿線を歩くカタツムリ歩行、22年目の最終年となる今年の初回、通算第
211回例会は好天に恵まれた。集合はJR武蔵野線の北府中駅である。
10時5分に駅を出て、武蔵野線に平行する府中街道をこ道橋で越えて、東側の北府中
公園に入る。
ケヤキなどまだ枯れ枝のままの高木が並ぶ園内の中ほどに、動物の彫刻が飾られていた。
公園の東側を走る通りは「薬師道」と呼ばれ、国分寺の薬師堂へ通じる古代からあった
道だという。
南側の車道を越えて府中中央公園と都立農業高の広い農場との間の通りへ。農場には、
きれいにせん定されたナシやモモの古木が並んでいた。
中央公園にある陸上競技場では、練習中の高校生だろうか、何人もトラックを走ってい
る。
この通りの南側には、「木刈道(きかりみち)」の標石が立っていた。
寿町二丁目を貫く桜並木の通りを東に向かう。「桜通り広場公園」と呼ぶ小さい公園の
一角にある「童々広場」には、走る童子や蓮の池などの彫刻が並んでいる。
南の大国魂(おおくにたま)神社に通じる、ケヤキ並木が続く広い通りに入った。
画材店や焼きたてのパン店など、しょうしゃな店が幾つも見られた。
府中市役所の府中駅北第2庁舎の南で、国道20号(甲州街道)を横断する。
「梅まつり」や府中を本拠とするサッカークラブFC東京の旗の下がるケヤキの大木の
横を進むと、大魂神社の方を向いて源義家の像がある。
950年余り前、源頼義・義家父子が、欧州平定の途次、大国塊神社に戦勝を祈願し、
平定後に神社にケヤキの苗木千本を寄進したのが、このケヤキ並木の始まり。のち徳川家
康により補植され現在の姿になり、いま「馬場大門けやき並木」は、国の天然記念物にな
っているという。
通りに立って世界的な医療支援を呼びかけていた2人の若い女性に、やまさんが声をか
けたりしてさらに進み、石鳥居前に大ケヤキの立つ大国塊神社に入る。
まず、右手にあった精巧な木彫の施されている手水舎にびっくり。ほかでは見られない
精巧な造りだ。
門は改築後間もないようで、白木から匂いが感じられそうに新しい。門を入って正面の
本殿に参拝した。
本殿の北東側にある鼓楼(ころう)は、嘉永7年(1854)の再建で、府中と近隣の
17名により寄進されたのだという。
境内中ほどの道を西に抜け、宮西町五丁目に入る。小さい交差点際に大谷石造りの蔵が
残っていた。
番場公園の前や、鉄道廃線跡を活用した下河原緑道↑を横断して、片町二丁目の高安寺
に入ると、境内の紅梅がかなり開花している。
高安寺は、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれにあたるという。
まず、「南無観世音菩薩」ののぼりの立ち並ぶ南東隅にある観音堂へ。享保年間
(1716~36)に現在地に再建されたと伝えられ、桁行三間、梁真間三間の入母屋造
り。多摩地区では数少ない江戸中期の三間堂(さんげんどう)だという。
広い境内の中心にある本堂の前にりっぱな山門があり、この二つと鐘楼とが、東京都選
定歴史的建造物になっている。
山門の手前には双体道祖神があり、山門横には水子地蔵がたくさん並ぶ。
本堂の右手前には、樹高13m、幹回り26mあり、市の保存樹木になっているクスノ
キの古木が、大きく枝を広げていた。
ほかに、本堂前には佐渡産という木化石などもあり、見どころの多い古寺だった。
片町一丁目を西へ、京王電鉄線の踏切を渡り、「屋敷分北裏道」の標石の立つ三好町一
丁目の住宅地を抜ける。国道20号を斜めに横切り、「本宿北裏道」を進むと、前方に石
積みの大きな円形のものが見えてきた。
そばに行くと、西府二丁目にある今日のゴール、熊野神社の背後にある国史跡、武蔵府
中熊野神社古墳だった。
古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に築造されたもので、上が丸く下が四角の上円下方墳
(じょうえんかほうふん)。3段目の上円墳の直径約16m、下方墳の中断一辺約23m、
下段の一辺約32あるという。
熊野神社には12時18分に到着した。神社の創建は江戸初期と伝えられ、本殿は往時
のままで、拝殿は天保9年(1838)9月に改築されたようだ。
拝殿の周囲で昼食後、記念撮影をしてミーティング。事務局のDさんの話の後、この
きの創始者、やまさんから、12月の府中本町駅ゴール後の、折り返し計画を↑、さらに
山浦敬子さんから↓デンマークでの留学生活の様子などついて話があり、13時近くに散
会となった。
(天気 快晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 府中市、歩数
6,800)
散会後、神社の西側から北に伸びる七小通りを進んで、14時5分にJR武蔵野線と
中央線との交差する西国分寺まで歩いて、帰途についた。(ゴールからプラス4㎞)
にほんブログ村