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盆栽野球

2022年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム

大谷翔平の大活躍を導いたのは栗山英樹であり、メジャーへの道を開拓し、広げたのは野茂とイチローで、その二人を導いたのは仰木彬だ。
極論すれば、この二人の監督がいなければ、今日のような日本選手のメジャー活躍は無かっただろう。
栗山英樹と仰木彬はともに牡牛座で堅実だ。タイプは真逆だが、野球が人生の目的ではなかったことが共通している。
おそらく、野球に対して固定概念が無く、常に第三者的観点を持てる人なのではなかろうか。

今日でも、野球の大御所と言われる人たちを見ると、メジャーに対して、憧れの別世界のような固定概念を持っている。また、それを伝えるメディアも同類だ。
何事も、一つの環境で打ち込んだ人は、他の土俵を同じものだとは考えられない。ことに野球のようにポジションが定まった、がんじがらめのルールの世界では、細部が注目され、意識が萎縮し固定化され、いわゆる「常識」が膨らみやすい。

自由な発想のアメリカさえ、大谷翔平の二刀流に驚いた。近年、誰も二刀流を試みなかったのは、野球と言うスポーツがいかに常識に陥りやすいかを示している。メジャーが王貞治の記録を認めようとしなかったのも、逆説的に日本球界と同様、日米には差があると思い込んでいたからだ。
世界で野球がサッカーのように広まらないのも、この、ルールと常識を前提にする「楽屋落ち」的なスポーツに、娯楽としての、とっつきにくさがあるからだろう。

結晶と干物
アメリカは、何でもありの国だけに、何事も結晶化しやすい。何かを行う時、そこに特化したルールやツールが生まれる。干渉が無いから、手段が先鋭化する。
互いに干渉し合って結晶化を拒む日本とは真逆に、とりあえず行くところまで行って、凝り固まると、それを砕くハンマーを使う。
日本の場合、結晶化しないまま全体がコチコチの干物になり、外部から黒船ハンマーが現れるまで、自らはハンマーも包丁も作れない。

アメリカの極端な結晶化は、様々な発明や変革をもたらしたが、歯止めが無いから行くとこまで行く。大恐慌、禁酒法、赤狩り、核爆弾から、自動車社会、ネット社会、グローバル化や中国怪獣に至るまで、歯止め無く膨張した結果のブーメランで、自分が苦しむ。
一方、スポーツでは野球のようにルールを細かくして、細部のテクニックや戦術がどんどん先鋭化する。投球制限とか専門ポジションの発想は、マシンの戦いで、スポーツ本来の人間を忘れてしまっている。根性主義の日本野球とは真逆だ。

日本の根性主義で、ノーアウト満塁を抑えきる松坂のような投手が、アメリカのシステム野球では死んでしまう。逆に根性主義に苦しんだ野茂やイチローは、アメリカで心理的に解放され、やりたいようにやって能力を開花させた。この、自由にやることの可能性を知っていたのが仰木彬ということになる。それは、生い立ちが、球界に憧れて心酔していた人ではなく、たまたまの就職先だったからだろう。だから、球界の圧力を取り払ってやれば活躍できる選手を、冷静に見抜くことができた。

この真逆が野村克也だ。ID野球と称し、あたかもメジャーのような野球観を提唱していたが、根底には人情根性があり、IDは人間を活かす手段だった。再生工場と言われたのも、システムから落ちこぼれた選手の長所を活用できたからだ。声高のIDには、日本野球が中途半端にデータ利用をすることを皮肉った面もあるような気がする。
ピッチャー新庄、「マー君神の子」など、どこまでも選手に対する人情と信頼に基づいていたように思う。つまり、真の人間野球だった。

人間を機械部品のように考えるメジャーに、人間で考える日本野球が加わることで、意外な結果を出したが、メジャーでは余りに異質で理解できず、面白い、使えるぐらいに見ていただろう。そこに、メジャーの基準をも満たす大谷が現れたことで、メジャープラスアルファとして受け入れられた。大谷のゴミ拾いや謙虚さなど、日本野球の精神主義、野球道にも目が向けられ始めたようだ。

その大谷登場の立役者は栗山英樹だ。直接、メジャーを目指していた大谷に二刀流を提示して日本に引き留め、実際に二刀流を開花させたのは栗山であり、もし、大谷がいきなりメジャーに行っていたら、それなりに成功はしたかも知れないが、今日の二刀流は無かっただろう。ただの優秀選手で、ヘタをすれば、それさえ無かったかも知れない。
パワー選手ならメジャーにはいくらでもいるからだ。
大谷の二刀流は、日本の人間野球だからこそ育てることができた盆栽であり、アメリカの大地に植え替えてそのまま成長した。
今後、可能性に気づいたメジャーでは次々と二刀流が現れるだろうが、同時に、二刀流潰しも進化する。
ビーチサンダルに生まれ変わった草履のように、文化の出会いはイノベーションを生む。日本野球がシステム野球を取り入れたように、メジャーにも野球道が加われば、さらに面白いものになるかもしれない。
ただ、その前に、近代スポーツ全体が、どこまで同じスタイルで続けられるものなのか、ローマの歴史に問うてみたい。