魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

総くずれ

2022年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

コロナのおかげでと言うか、長生きしたおかげで歴史的パニックを体験した。
相場やオイルショックは、命まで取ろうという話ではないが、パンデミックは全ての人に死を突きつけるから、他人事ではいられない。

集団や組織の機能が、個々に失われ、全体の有機的機能が停止することを「総崩れ」と言い、個人戦にはない。柔道などの各階級がみな負けたりすると「総崩れ」と言うが、種目全体を一つの組織とみたものだ。
サッカーなどで、負けるハズのないチームが、何かの弾みに、あれよあれよと失点を重ねるときは、総崩れが起こっている。
一人一人はスゴイ能力なのに、意外な失点など何かのショックで、連携が狂い、集団としての能力が全く機能しなくなる。
これは、互いの意識空間、意識の場が消えるからで、コンセンサスへの不安が生れると、安心して本来の行動がとれなくなる。互いに何をして良いか解らなくなり、機能の連携が失われ、全体としての能力が消える。

人の身体もサッカーチームによく似ている。個々の器官の機能が連携して、そこから生まれる意識を支え、同時に意識が器官を動かす。個々の器官がどんなに優秀でも意識が低下すると連携が失われ、それがまた器官を衰弱させる。
「病は気から」とは、「病気ではない気のせいだ」ではなく、気持ちさえ強ければ病気にはならないという意味でもない。気持ち次第で治癒も悪化も進むことを教えている。
自分の身体に対する不安が生まれると、身体コントロール意欲が低下し、個々の器官の維持力が低下する。するとますます不安になり、正常ではない行動を取り始める。寝込んだり、食べなくなったりし、やがて実際に症状が現れ、悪化が始まる。

複層的な能力の集合体なら、社会も人体やサッカーチームに似ている。
コロナのような得体の知れない不安が起こると、健康の素である社会の意欲=相互信頼が失われる。一点に注目すれば、他の機能が相対的にストップし、社会全体が衰弱する。社会の健康の基本は社会信頼であり、政治経済への安心感が細胞である個人の意欲と能力を生む。だが、意識が個々の健康だけに向けられると、相互機能が停止する。
コロナで個々の危機が煽られ、社会維持の指針は完全に忘れられた。身体は器官に多少の不具合が生じても意識がしっかりしていれば、全体の機能によって修復が可能だ。サッカーで一人退場になっても逆転勝ちしたりするのは全体の意識が高まるからだ。

多少泳げる人でも溺れるのは、一瞬の呼吸困難に意識が集中し、泳ぎながら呼吸を整えるという、二つのことが同時にできなくなるからだ。
子供の頃、溺れかけたことがある。一旦、息を止めれば良いはずなのだが、身体は水を吐き出そうとする、意識は泳ごうとする。これをしばらく繰り返し、やがて泳ぐことができなくなり、大量の水を飲む。コロナが水なら、呼吸は医療、泳ごうとするのは社会経済だ。
パニックは、常態が小さく失われた時、それを正常に戻そうとして起こり、悪循環によって全てが破綻する。非常事態の時には、誰がどう騒ごうと、取捨選択から考えなければならない。それをやったのが中国であり、溺れたのが民主主義国だ。
しかし、水が引いて足が届くようになっているのに、同じ事を続けていると、本当に死んでしまう。中国は強制呼吸停止で、民主主義国は水深30㎝で。

サッカーも人も社会も、局所の問題に囚われると、全体の機能が失われ敗北する。
オミクロン大発生の英国などが、警戒措置を止めたのは卓見だ。