魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

二百年後

2021年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

オリンピックを強行すれば、やはり、それなりの盛り上がりはあった。日本の金メダルラッシュで、反対していたことを忘れた人は、為政者の愛する良き民衆だ。
確かに、菅総理の言う「責任を果たした」が、スポーツ大会であって、オリンピックは無かった。と言うより、新しい時代を告げる、記念すべきオリンピックと言うべきなのかも知れない。
無観客や、選手のバブル隔離、スポンサーの敬遠など初物尽くしで、近代オリンピックを支えた柱が、ことごとく失われた。
さらに、これに続く北京も、世界の嫌悪の中で、ヒトラーのベルリン大会の様相を帯びてきた。
近代オリンピックは、東京・北京で、終わるか生まれ変わることになる。

この先もオリンピックを続けるならば、名前だけ残して、理念も形も一から刷新する必要がある。全く同じことを続けようとすれば、自然消滅する。既に、経済効果も見込めず、開催を名乗り出る国が減り、残るのは、国威プロパガンダの道具にする中国のような国だけだ。
オリンピック招致で、日本が得たもの失ったものを冷徹に評価する必要がある。そして、中国は何を得て何を失うか。この観覧の方が面白そうだ。

ミレニアムのイベント
オリンピックがこの時期に強行されたのは、アメリカのテレビ放映の都合であり、アメリカで人気が無いオリンピックは、他のスポーツの閑散期の穴埋めに使われ、IOCはそれに合わせなければ開催できず、しかも、視聴率は最低だった。まさに、20世紀方式の終焉を告げている。
情報化時代に一堂に会するスポーツイベントをしたいなら、ムダの無い固定方式だろうが、逆に、通信を生かした各競技の「世界分散方式」も可能だ。持ち回りか固定で、各競技を世界同時開催すれば、世界中で地元開催と国際イベントを体感することができる。しかも、南半球と北半球で夏冬同時開催もできる。

様々な方法が考えられるが、今回の、東京・北京は近代オリンピックを改める機会になりそうだし、フランス大会を打ち止めにすれば、クーベルタン記念で美しく終われる。
オリンピックに限らず、2020年代は第二次大戦後と同様に、世界が大きく変わる。
結果的に主導権を握るのは大国ではない。
近代国家が失われていく過程で、大国は自己崩壊し、中堅国連携による新時代の秩序が生まれ、その後、地球連邦的な新秩序が生まれていくのだろう。連邦というのも概念であって、実際は様々な組織の集合体になる。二百年後の話だが。

どういう世界が生まれるか、霧の彼方だが、確かなことは、現在の国家を前提に将来を考えても始まらない。将来の地球国家を見据えながら、そのステップとして政経を進めていかなければならないだろう。オリンピックもその一つだ。