魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

禍の正体 2

2021年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

メディアが暗に期待するロックダウンに、若者が賛同しないのは、メディアが若者の情報源ではなくなっているからだろう。
コロナに対する認識は、メディアとの親和度に比例する。
新聞&テレビのメディア世代と、スマホ世代の断層は、弥生と縄文ほどの落差がある。
メディア世代の認識は弥生型の文明で、正否が統一されているが、スマホ世代は定見の無い縄文のようなものだ。

弥生集落では、敵味方を前提に物見櫓の上から敵の来襲を告げるが、敵を見張る必要のない縄文では、見えた物はすべて直感的に霊的な解釈をする。
メディアを信じて生きる大人世代は、先ず敵か見方か、定義を知りたがるが、スマホ世界に生きる若者は、聞こえてくる現象や噂を直感的に判断し、無防備無批判に受け入れる。
物事を基準に照らして理路整然と考えるメディア世代の大人は、見識の無いスマホ世代を心配するが、既成概念の無いスマホ世代には「裸の王様」が見える。

かわら版屋が報道機関に成り上がったのは、民意と双方向で成り立つ民主主義に必要だったからで、学校教育もその社会の一員として参加するために生まれた。当然、国民は報道によって個人と社会のあるべき姿を考えるのだが、そこから生まれる賛否は、一定の常識から外れるものではない。学校で教えられた、知識と論理に則っているからだ。
メディアは情報インフラとしての権威を持っているから、自分たちが社会を形作っていると自負している・・・と、ここまでは良いとしよう。

戦争責任
メディアがなぜ戦争を誘発するのか。それは、権威を持つ者が「帝王学」を学んでいないからだ。民を統治する権力者には責任がある。したがつて軽々な言動は許されない。
しかし、剣より強いペンは、飯の種なら何でもやる。結果や責任など考えていない。誤報道の訂正が元記事より大きかったことは無いし、誤報道で潰れた会社は無い。戦犯新聞社が得意になって戦犯を糾弾し、平気で誤報道を垂れ流す。
そんなメディアがまくしたてるコロナ報道に国中が踊らされ、挙げ句の果てに、まんまと「ロックダウン」を叫ぶ先兵にされている。
弥生の文明思考は、敵味方が明らかだから、櫓の上でメディアが叫べば、直ちに槍を持って駆け出してくる。

ところが、櫓も囲いも無い、メディアと無縁の縄文思考の若者は、周囲の言葉と自分の経験から考えるから、噂を信じても、櫓の叫びには関心が無い。大人のように簡単には反応しない。メディア情報も、スマホを介してウワサになった方を信じる、ものごとを霊や妖怪の人格のように理解する。血の通わない大本営発表に距離を置く。合理的な話をうさんくさいと感じる。メディア世代が合理的な報道によって情緒的になるのに対し、スマホ世代は感覚的に情報に接する故に、説明のつかない「本当のこと」が見えてしまう。
メディアが幾ら叫んでも、今更、拡大防止のロックダウンが無意味であると、感覚的に察知している。非論理的だが、裸の王様は見えるのだ。
ただ、残念なことは、大人世代の空しい戦いに、説得力のある提案が出来ないことだ。
戦時中、様々な意見を持ちながら、若者が黙って死んでいったことを、今の大人は思い起こすべきだろう。