魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

男女の事

2018年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム

土俵上で倒れた舞鶴市長の救命に駆けつけた医療関係者の女性に、土俵から降りるようにアナウンスがあり、物議を醸している。
その最中、今度は、宝塚市長が女性だからと拒否され、土俵下で挨拶をし、「女性である前に人間だ」「悔しい」と訴えた。
神事と一体化しているとする相撲を国技とすることの是非も、もう一度考えて見る問題だが、その前に、「なんかおかしい」気がする。

ジェンダー問題は、性差を排除することが目的であるはずなのに、ともすれば、男女の性差の「転換」と混同しているような人達がいる。男性・女性の個性を尊重することと、職能に性を持ち込む必要とは関係ない。むしろ戒めるべきではないのか。
職能に「女」を付けることを排除する為に、看護婦を看護師と呼び、保母を保育士と呼ぶようにしているのではないのか。

「女医」さんと、何やら意味ありげな呼び方をしていたのは、昔の差別意識からだが、今でも同じように呼ぶことが多い。同様に、女性市長と報道が呼び、市長自身も「自分は人間だ」の次元を論じた。
職能は物理的違いのある人間次元ではなく、基本は、役割・能力の権化としてあるのではないのか。

土俵に上がるのは、男性市長でも、女性市長でもなく、「市長」であり、将来そういうことになれば、AIロボット市長が上がっても良いのだ。愛ちゃんにも是非、市長になってもらいたい。
舞鶴市長の救命に駆けつけたのは、「女性」ではなく、職能そのものなのだ。
女性だから、男性だからと論ずるのは、男性の立場からも止めてもらいたい。

ついでに、もう一つ、女性専用列車に反対はしないが、同時に必ず、男性専用列車も繋いでもらいたい。