魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

国家兄弟(3)

2018年04月12日 | 兄弟関係

弟妹の世界
世界は弟妹の原理で動いている。
長子は先ず自分で原則を探り、その原則に従って動いては失敗する。しかし、弟妹には原則が無い。良く言えば現実的、悪く言えば場当たりだ。
親兄姉の強権力に押さえられながら育った弟妹は、自分で原理原則を求めても、何の役にも立たないと知っている。どうしようもない大きな力の前では、自分が何を決めようとブチ壊されるからだ。

人類は自然の大きな力の前では無力であり、自然にどう対処し、どう利用して生きるかを考えてきた。これは、大きな力の下に生まれた弟妹の立場と同じであり、か弱い存在としてのあきらめから出発する。
人の歴史の中で、か弱い存在として泣きわめく人は、神に救いを求め、それでも何とかしようとする人は、状況をよく見極めようとする。それが学問だ。
信仰と学問とは真逆のように見えるが、どちらも弱者として、神を崇拝し見上げる視点から始まっている。学問の先にあるのは、自然あるいはその創造者たる神(普遍性)だ。

歴史的に長子だったような国には、実用主義的「知恵」は生まれたが、従うべき神も科学も生まれなかった。中国にもインドにもエジプトにも、人のような精霊はいても、絶対的な他者のルールである神への信仰は無く、一人っ子である日本にも絶対神はいない。
誰にも邪魔されない、怖い物知らずの長子は、弱者の立場から、ものを考える必要が無い。長子国とは成立時に、大きな敵がいなかった国だ。
一神教は、弱者である奴隷のユダヤ人から生まれ、弱体化したローマを感化し世界に広まった。科学もやはり、興亡を繰り返す中東から生まれ、一神教の国で成長した。世界は弟妹の弱者原理の方が馴染みやすいということだろう。

長子の目線
世界で、おそらく唯一、長子の生き残りである中国は、この弟妹型の世界を取り入れながらも、苦々しく思っている。中国の態度は、長子そのものだ。始めから他国を見下している。他国のどんな言動も幼稚だと思いたがる。相手の優れたところを見ると、子供なのに「大したものだ」という観点で評価する。
他国、他人から正しい指摘を受けても、「ちょっと自分が成功したら、上から目線でエラそうに」と受け止める。それが、中国人がすぐ、「中国人をバカにしている」と怒り出す背景だ。自分が上だと思っているから、立場が弱いと逆に、コンプレックスになる。

中国ですぐ出る、他国に「学ぶ」という発想は、「例え子供の言動であっても」、良いことは認め、教訓とすべきだ・・・の意味で、あくまで、「上から目線」を止められない。これが長子の悲しい性だ。弟妹と同じ立場、同じ目線に立って考えれば、背負うことのない苦労を背負い、自らに足枷を掛け、その結果、他者にストレスを与える。
南シナ海も台湾も、北朝鮮も尖閣も、全て自分でつくり出した中国自身の「足枷」だ。


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