東アジアの国々の挙動を見ていると、兄弟のパターンが見えてくる。
国や地域、民族は複雑で、多様な人々によって構成されているにもかかわらず、まるで個人のような姿を見せる。
改めて言うまでもないが、
個々の人間は複雑ではあるが、同時に、単純な類型化にも当てはまる。動物である人間の行動は、しょせん限られているから、表面的な比較は簡単だ。速い人や遅い人、強い人や弱い人など、自ずと別れてくる。資質や環境で生まれる類型は誰も否定できないだろう。
同じ人間でありながら、個々の異なる行動の理由は様々だが、兄弟関係による影響にも、明らかなパターンが認められる。
民族や国民という膨大な人口も、一つの文化の塊としての行動には、やはり個性がある。自然環境や遺伝的特性もあるだろうが、長い歴史的なせめぎ合いの中で、兄弟の生い立ちのように、互いに影響してきたのだろう。
国家集団が、個人のような兄弟パターンを持つことを念頭に置けば、国を見て、兄弟の行動原理を知り、個人の兄弟関係を見て、国の出方を予測できる。
中国はなぜ横柄なのか、朝鮮はなぜ騒がしいのか、ロシアはなぜズル賢そうなのか、日本はなぜ変わっているのか・・・
国でも個人でも、互いに腹立たしい態度が、生い立ちの影響であると解れば、心情が理解できて、寛容になれるし、次にどう出るかも予想でき、思いがけない言動に驚くこともない。そして、どう接するべきかのヒントにもなる。
長子の横暴には、相手の意見を尊重しながら話せば、話しを聞いてもらえる。
中間児の猜疑心には、権威のある裏付けで安心させながら話せば、聞いてもらえる。
末っ子には、おだてと賛同で聞きながら、反論は毅然として言い切り、議論を避ける。
長子は自分の思い込みから、話のスジが通らないことを怒るが、裏切りはない。
長子は意外にも、誠実であれば異論を聞こうとするが、弟妹はとにかく「反論」そのものを嫌う。解ってもらおうと、事情や手の内を説明するのは逆効果。単純化した結論に納得するが、成り行き次第で裏切る・・・などなど、個人にも国にも当てはまる。
弟妹社会に浮く長子
今の中国の態度は、実は、一世紀前の日本に似ている。勝手な判断と「思い」だけで突っ走り、誰も説得する人がいないから、独善と思い上がりで腕力(軍)が暴走する。
弟妹で成り立つ世界は、力「関係」が重要な原理であって、一人っ子や長子のように、互いを尊重しながら話し合うことはない。出る杭は問答無用で押さえようとする。
誰も説得せず、力で押さえられると爆発するのが長子だ。
弟妹は、先ず力関係を見て、全体の空気を見て動くから、日本や中国のような、長子の独りよがりを説得する気は無い。力でものを言おうとする。
現代史の中で、長子の失敗経験を持つのは日本だけだ。ドイツの場合、親兄姉にあたる「神」の下での弟妹争いであり、敗戦すると、全てナチスのせいにしてスルリと他人事にしてしまった。過去を無かったことにできるのは、「関係性」で生きる弟妹の能力だ。
弟妹のいない長子、一人っ子の日本は自我が強く、過去も今も同じ自分だと考えるから、ドイツのように「関係を切り替える」だけの変わり身で、反省の儀式ができない。それが、いつまでも非を認めないように見られる。実は、最も過去に「懲りている」のは、日本人自身だ。
中国も、根底は日本と同じように自我が強く、無責任な変わり身ができない。ただ、政権が変わることで、新しくなったと考えて生きる。一見、ドイツの「ナチスのせい」に似ているが、中国の場合は、被害者が自分たち自身であり、誰かに見せるための反省ではないところに、政権を超えた自省がある。
力関係だけで行動を迫られる弟妹型の世界では、中国は、やがて日本のように爆発する。
中国に対し、「領土拡張のような帝国主義的経済活動より、グローバル経済の発展の中で、中国は充分しかるべき立場を得られるではないですか」と、中国を理解して説得できるのは、日本だけなのかも知れない。
ただ、残念なことは、現代の日本が、皮肉にも、弟妹原理の民主主義に従って生きていることだ。相手を徳に従って説得することはせず、ルールに従って付き合うべきと考えている。そして日本人は、ルールが人によって作られることを忘れがちになる。
(了)