魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

蛍の宿は:補足

2012年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

蛍の宿は」の補足になるが、
幽霊を信じていないのに、なぜ、恐怖に駆られたのだろう。

一つには、「幽霊は絶対にいない」とは思っていないからだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言う場合も、その時驚いたのはススキかも知れないが、幽霊を全面否定しているワケではない。
幽霊の存在は証明できないが、同時に否定もできない。
九分九厘否定していても、一厘は、どこかで否定し切れていない。

もう一つの理由として、驚きの定石にハマっていたからでもある。
丑三つ時の、真っ暗な霧に包まれた山中で、不可解な金色の輝きに不気味になっていたところに、既に怖がっている人の恐怖感が伝わり、たたみ掛けて、不可解なものが現れた。
静寂をつんざく「ギャーッ」の叫び声で、何かを判断するより、とにかく「避難だっ」 で、アドレナリンが全開した。

笑いや恐怖は、単発では盛り上がらない。少しずつ盛り上げておいて、一気に展開すると、爆発する。
落語でもそうだが、初め「前振り」で伏線を張り、先入観を植え付けておいて、忘れた頃に、先入観に火を付ける。 ドッカーン

理性を失うパニックも、そうして起こる。
1929年の「大恐慌」は、突然、初めて株が暴落したのではない。
それまで、何度も小さな暴落を繰り返し、「大暴落が起こったらどうしよう」と、疑心暗鬼が極限まで達した時に起こったもので、恐怖心に火を付けたことで、実態以上のパニックになった。

フクシマの原発事故の時も、安全神話で恐怖感の無い日本より、原発議論が盛んな国や、逆に全く無関心な国の方がパニックになった。
そして、日本国内でも、原発を信じ込んで暮らしていた人の方が、情報が増えるにつれ、過剰反応を起こし始めた。
そう言えば語弊があるが、放射能被害とは、幽霊のようなものだ。

幽霊の怖さは、本当のところよく解らない。
最大の能力と言えば、死の世界に引きずり込むことぐらいだろうが、人間は必ず死ぬのだから、その原因となると、いるかいないか解らないような幽霊より、街を走っている車や、台所にある包丁の方がよほど危険で、しかも、それを操る者は生きている人間だ。
自分を含めて、身の回りにいる人間の方が、よほど怖い。

何か相当、怖いらしいものが、「出たっ」と言うだけで、すべてを投げ打って逃げ出さなければならないほど、本当に怖いのかどうか、
「エライことが起こった」時には、よく考えてみる必要がある。

地震のように突発的でも、いつかかならず起こるものなら、予め心の準備をしておかなければならないし、政治や経済のように、どんなに突然でも、相当な予兆期間のあるものなら、その時、状況に振り回されないで、頭を上げて、辺りを見回し、歴史を振り返り、冷静な判断をしなければならない。

ところで、例の白装束の老人の件だが、もし幽霊や妖怪を信じる人ならどう考えるだろうか。
蛍の住む土地の主か呪縛霊が、可愛い蛍を捕ろうとする人間を懲らしめるために現れた・・・
きっと、そんな風に考えるかも知れない。

また、あの「金色の輝き」は、後に、「夜の闇で輝くのはヘビの眼だから気をつけろ」という話を聞いたことがあるので、ヘビだったのかも。
だとすると、白ヘビの精が、人間を獲って喰おうと現れたのかも知れない。
くわばら、くわばら