魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

振る舞い

2009年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

マイケル・ジャクソンの突然の死が、北朝鮮の核実験と同じぐらいの扱いで報道されている。マスコミとはこんなものだ。

マイケル・ジャクソンの世代ではないので、そう実感はない。
むしろ、生き様に痛々しさを感じていたので、空しさがある。
元々、どんな死についても、あまり衝撃を受けない・・・
と言えば、冷たいやつだと言う人もいるだろうが、人の痛みは互いにわからないものだ。

死は生の裏返しだから、誰もが、死を見て生を再確認する。
誰かが死んだ時、あるいは死んでから、その人の生がどれほどのものだったのかが解ってくる。
決して、葬儀の盛大さや、参列者の数のことではない。

個人的にも社会的にも、その人のいた空間がポッカリと浮かび上がる。その空間の大きさは、人それぞれの立ち位置で違ってくる。
ある人には大きく、ある人には小さい。そしてまた、ある人にはまったく見えない。

見えない人。自分でその意味を考えられない人ほど、死について大騒ぎをする。
死でなくても、何事においても実感のない人ほど仰々しく騒ぎ立てる。
裸の王様の衣装に「すばらしい!」と大声を上げるような人は、どこにでもいる。
これは意識してではなく、考える習慣がないから、「行為」でしか感じられないからだ。

誰かが死んだと聞くと、現場に駆けつけ、泣き叫び、弔いの場で大層に振る舞い。時には、誰かに当たり散らしてトラブルをつくる。
そして、悲しみで言葉も失った人に対し、涙も流さない冷たいヤツと罵倒し、比較して自分こそが、一番悲しんでいる人間であると納得する。

挙げ句の果てに、近親縁故の場合、その証として、財産や地位の相続を多く受けようとする。あるいは実際に、いつの間にか受けている。
有名人の場合などで言えば、いつの間にか一番親しかった人間として墓守のようにTV出演している。
悪意はないのだろう。そういうやり方でしか実感できない人なのだ。

変な人
親が死んでも泣かず、友の葬式にも行かない。そういう人が時々いる。
中には、自分の葬式も止めてくれと言い残す人もいる。
多くの人は、「変わりモンだ」「人間味のないやつだ」と言うだろう。
確かに、人間が人並みにすることをしないのだから、人間味がないと言えばその通りだ。

しかし、感受性や正直さにおいて、人並み外れて人間性のある人ではなかろうか。

人の営みに疑問を持ち、生きることに苦しみ、人が普通に習い覚えて振る舞うようにできない人が、ついには居直って、自分に忠実に生きるようになった人。
受け入れられない出来事を、深く考え悩み、自分なりにしか答えを出せない人・・・

「世間」という俗世の人は、こういう人を「変人」と呼んで嫌う。
集団と同じように反応しない存在は、危険な異物だからだ。