魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

教育も大転換

2008年12月07日 | 大転換

学力の低下は、ゆとり教育のせいだと言われている。
ある意味では正しいが、どちらも間違っている。
詰め込み教育に対して生まれた、ゆとり教育は、単なる裏返しに過ぎなかったからだ。

どちらも、教育を「量的問題」と考えていたからだ。
ゆとり教育を考えた人は、質をどうにかしたかったのだろうが、
現場は、人も発想も同じまま、反対をやっただけだから、当然、量を減らした分だけ結果は落ちた。

ゆとり教育の失敗を、また元の詰め込みに戻せば、ある程度は量的実力は向上するだろう。
しかし、何より重要な問題が、忘れられているようだ。

戦後教育で一番失われたことは、「学びたい心」だ。
産業革命後の社会は、社会構成員を学校で作るようになった。
はじめは、一人前になるために、貧困から脱出するために、学校で良い成績を収めたいという意欲が、子供たちの学びたい意欲を刺激した。
その時代の学習意欲は、今の、途上国や新興国にそのまま見られる。

先進国では、国家の歯車になるための学習意欲は失われるから、個人としての向上を、学習目的にすることで「学びたい心」を刺激する。
ところが、戦後、先進国入りしてからも、発展途上国的教育システム(=規格品の人間作り)、で学校を考えてきたから、どうひねくり回しても、子供の学習意欲は起こらない。

学校で学ぶことが、現実の社会の役に立たない。自由な個性がカッコ良いのに、規格品になれと言う学校。こんな嘘と無駄な時間を強制する施設では、仮面の社会が生まれる。つまり、いじめ社会だ。

人間は学びたい動物
ほ乳類は、学ぶことで「知の武器」を身につけるから、はじめから学びたい動物だ。
それを、工業生産のための、規格品の知を強制するから、満ち足りて報酬に魅力がなくなったとたん、意欲が減退する。

しかし、本来、放っておいても人間は学ぼうとする。それでも、知の強制をしていると、強制外の、あるいは禁断の知を学ぼうとする。
それが、鉄道マニアぐらいなら可愛いが、大麻や、新興宗教に好奇心や満足を求める。

大転換へ向けて
産業革命後の学校は250年の役目を終えた。
これから始まる大転換には、新しい時代の成長システムが必要になる。
学校という設備に、子供を集めて個性や能力をそぎ落とし、規格品を作る時代は終わった。

人間形成は家庭や地域で行い、学力は情報システムで、その子に応じた能力をつければいい。
数学や物理ができなくても、立派な人間には成れる。
国際学力競争など、気にすることはない。産業革命の後遺症だ。
競争するなら、実際の独創的成果だ。