「半沢直樹」は面白い。
話題になっていた第一シーズンは観てなかったので、放送開始前の総集編で観た。歌舞伎俳優を多用している訳がわかった。これは、まさに勧善懲悪の現代歌舞伎だ。
確かに面白いが、これが大人気する今の日本が、心配になってきた。
これまでも、水戸黄門や大岡越前、遠山の金さん、桃太郎侍と、同類のドラマは人気してきたし、日本人の多くはこのパターンを好み、権威による正義のお裁きを求めている。
江戸幕府の権威による安定社会では、どんな悪事が行われようと、最後には権威によって懲戒される・・・と、思いたかった。自分たちの力で正義を追求することができなかったからだ。
ところが、自由と人権が認められている現代にありながら、水戸黄門や大岡越前が人気する。それは、自分では悪に立ち向かえないと諦めているからであり、始めからその気もないからだ。
そういう人たちが、悪を滅ぼしてくれる権威を待ち望むのは良く解るが、おそらくは日頃、水戸黄門や桃太郎侍をバカにしているであろう人でも、「半沢直樹」には喝采をする。
「半沢直樹」の舞台は現代だが、閉塞社会の内部の話であることは、江戸の時代劇と変わらない。
日本経済や大銀行という、崩せないことが前提の権威があり、物語はその仕組みとルールの中で進行する。
銀行は世のため人のためにある社会インフラで、大銀行は破綻しないと信じ、それを守ろうとすることが善として描かれる。これは、幕藩体制は守るのが当然とする、江戸時代劇と同じ物語だ。
大岡越前を後ろで支える将軍に当たるのが頭取で、物言わぬ権威が黙ってそこにいるのは、法華経や華厳経の沈黙のお釈迦様のような、あるいは、日本神話の天之御中主神のような古典的設定でもある。つまり、頭取の下の限定世界の物語となっている。
これに対し、戦国物、幕末維新物は、体制そのものを創る話だから、世界に果てが無く、登場人物の力関係に上下が無い。しかし、それでも、視聴者は歴史を知っているから、安心して観ている。興味は、どの視点で描かれているかだが、その意味で、これも所詮、定番ドラマの枠を出ない。
ただ、外国に対するスタンスは、江戸時代劇では、せいぜい抜け荷の話ぐらいだが、幕末や戦国は外国勢力が大きなファクターになる。この点でも、「半沢直樹」は江戸時代劇だ。外国の位置づけが大きな影響力として存在しない。外国企業の存在は、何かスゴイけど、南蛮渡来や舶来と同程度の扱いで、ストーリーの柱ではない。
今そこにある日本のマジョリティ
「半沢直樹」の閉塞社会での闘いは、作者が、バブル世代で、崩壊後の苦境を生きてきたことにあるのだろう。半沢が目の敵にする上司たちは、バブル世代が忌み嫌う団塊世代であり、戦後混乱期に育った団塊世代は、戦国・幕末的な世界観だから、秩序や組織を信用していない。自分がルールを作るつもりでいる。一方、バブル世代以降は、偏差値に象徴される規格化の時代に育ち、進学も就職も一つの尺度で上下が決まり、一方で、その反動から、規格を拒否するツッパリの時代でもあった。
無秩序で育った団塊世代が自由を求めるのに対し、秩序に縛られながら個人競争を強いられたバブル世代は、スポーツルールの中のガッツと緻密さを原動力にしている。
団塊世代は大まかに昭和20年代生まれで、バブル世代は30年代となり、長子と中間児の関係に似ている。なお、30年生まれの明石家さんまはその分岐点で、そのどちらでもないが、個人的には弟妹だ。気持ちはバブルだが、団塊の兄姉から学んだ価値観を是とする。
中間児をブランド志向に例える人がいるが、言い得て妙だ。既存の価値を尊重する。
また、長子が長たる責任の負担を嫌がるのに対し、弟妹は自分が長であることに憧れる。トランプも安倍も中間児だが、クリントン、ブッシュ、オバマは長子だ。つまり、責任の重さに対する認識が違う。長子は自分が責任者だから人の言うことを素直に聞かない。
ブランド志向のバブル世代が残した問題は、男女の「しきたり事」で、このため、後の世代は、いわゆる男女交際を敬遠するようになり、恋愛や結婚観が大きく変わった。
バブル崩壊後の苦境の中、バブル世代のパワーは、保守に向かい、その世代が現在の企業を担っている。このため、日本企業はルールの無い冒険を避ける。
「半沢直樹」を観ていても、緻密な将棋の面白さとは裏腹に、脅威となる黒船が、体制そのもの、日本経済や大銀行を滅ぼすような危機感はない。話もルールも通じない相手と戦うことは想定外だ。
太平を願う内向き思考の江戸幕府に黒船が現れると、戦略無き攘夷論や、無節操な開国論しか出てこない。
実際、新興国に後れを取った日本企業は、内部留保に走るかと思えば、ご祈祷のように見境無く外国企業買収に走り、大怪我をしている。
「半沢直樹」に喝采する日本は、海外赴任を嫌い、海外留学を嫌う若者を始め、捨て身の韓国や暴力団中国の脅しに負けて、ただただ嫌韓、嫌中になる、上品なお公家さん社会だ。
想定外のコロナ事態も、「おおこわ!おおこわ!」と、ひたすら恐れて騒ぎ、ワクチン祈願に手を合わす。自分が犠牲者になる前提はなく、汚れを排除し、「早う官軍を派遣して反乱軍を鎮圧せんかいな!」と、喚くだけだ。
戦場にいる者は小さな傷を気にしている暇はない。格闘技を始めアスリートも、一般人と比べれば、怪我に無頓着だ。戦場に無傷は無く、コロナは突然襲ってきた正体の判らない敵との、戦争だ。
戦いはともに傷つくものだ。取るか取られるかの麻雀ではない。「倍返し」の発想は、戦勝国の賠償請求がナチスドイツを生んだ第一次大戦のように、日本に際限なく賠償を求める韓国のように、「人を呪わば穴二つ」だ。
自然災害に「倍返し」など要求できない。正体不明の巨大な相手、黒船との戦いは、先ず自己修復が第一であり、二度と攻められない思想と体制を作ることこそが、自らへの倍返しだ。
話題になっていた第一シーズンは観てなかったので、放送開始前の総集編で観た。歌舞伎俳優を多用している訳がわかった。これは、まさに勧善懲悪の現代歌舞伎だ。
確かに面白いが、これが大人気する今の日本が、心配になってきた。
これまでも、水戸黄門や大岡越前、遠山の金さん、桃太郎侍と、同類のドラマは人気してきたし、日本人の多くはこのパターンを好み、権威による正義のお裁きを求めている。
江戸幕府の権威による安定社会では、どんな悪事が行われようと、最後には権威によって懲戒される・・・と、思いたかった。自分たちの力で正義を追求することができなかったからだ。
ところが、自由と人権が認められている現代にありながら、水戸黄門や大岡越前が人気する。それは、自分では悪に立ち向かえないと諦めているからであり、始めからその気もないからだ。
そういう人たちが、悪を滅ぼしてくれる権威を待ち望むのは良く解るが、おそらくは日頃、水戸黄門や桃太郎侍をバカにしているであろう人でも、「半沢直樹」には喝采をする。
「半沢直樹」の舞台は現代だが、閉塞社会の内部の話であることは、江戸の時代劇と変わらない。
日本経済や大銀行という、崩せないことが前提の権威があり、物語はその仕組みとルールの中で進行する。
銀行は世のため人のためにある社会インフラで、大銀行は破綻しないと信じ、それを守ろうとすることが善として描かれる。これは、幕藩体制は守るのが当然とする、江戸時代劇と同じ物語だ。
大岡越前を後ろで支える将軍に当たるのが頭取で、物言わぬ権威が黙ってそこにいるのは、法華経や華厳経の沈黙のお釈迦様のような、あるいは、日本神話の天之御中主神のような古典的設定でもある。つまり、頭取の下の限定世界の物語となっている。
これに対し、戦国物、幕末維新物は、体制そのものを創る話だから、世界に果てが無く、登場人物の力関係に上下が無い。しかし、それでも、視聴者は歴史を知っているから、安心して観ている。興味は、どの視点で描かれているかだが、その意味で、これも所詮、定番ドラマの枠を出ない。
ただ、外国に対するスタンスは、江戸時代劇では、せいぜい抜け荷の話ぐらいだが、幕末や戦国は外国勢力が大きなファクターになる。この点でも、「半沢直樹」は江戸時代劇だ。外国の位置づけが大きな影響力として存在しない。外国企業の存在は、何かスゴイけど、南蛮渡来や舶来と同程度の扱いで、ストーリーの柱ではない。
今そこにある日本のマジョリティ
「半沢直樹」の閉塞社会での闘いは、作者が、バブル世代で、崩壊後の苦境を生きてきたことにあるのだろう。半沢が目の敵にする上司たちは、バブル世代が忌み嫌う団塊世代であり、戦後混乱期に育った団塊世代は、戦国・幕末的な世界観だから、秩序や組織を信用していない。自分がルールを作るつもりでいる。一方、バブル世代以降は、偏差値に象徴される規格化の時代に育ち、進学も就職も一つの尺度で上下が決まり、一方で、その反動から、規格を拒否するツッパリの時代でもあった。
無秩序で育った団塊世代が自由を求めるのに対し、秩序に縛られながら個人競争を強いられたバブル世代は、スポーツルールの中のガッツと緻密さを原動力にしている。
団塊世代は大まかに昭和20年代生まれで、バブル世代は30年代となり、長子と中間児の関係に似ている。なお、30年生まれの明石家さんまはその分岐点で、そのどちらでもないが、個人的には弟妹だ。気持ちはバブルだが、団塊の兄姉から学んだ価値観を是とする。
中間児をブランド志向に例える人がいるが、言い得て妙だ。既存の価値を尊重する。
また、長子が長たる責任の負担を嫌がるのに対し、弟妹は自分が長であることに憧れる。トランプも安倍も中間児だが、クリントン、ブッシュ、オバマは長子だ。つまり、責任の重さに対する認識が違う。長子は自分が責任者だから人の言うことを素直に聞かない。
ブランド志向のバブル世代が残した問題は、男女の「しきたり事」で、このため、後の世代は、いわゆる男女交際を敬遠するようになり、恋愛や結婚観が大きく変わった。
バブル崩壊後の苦境の中、バブル世代のパワーは、保守に向かい、その世代が現在の企業を担っている。このため、日本企業はルールの無い冒険を避ける。
「半沢直樹」を観ていても、緻密な将棋の面白さとは裏腹に、脅威となる黒船が、体制そのもの、日本経済や大銀行を滅ぼすような危機感はない。話もルールも通じない相手と戦うことは想定外だ。
太平を願う内向き思考の江戸幕府に黒船が現れると、戦略無き攘夷論や、無節操な開国論しか出てこない。
実際、新興国に後れを取った日本企業は、内部留保に走るかと思えば、ご祈祷のように見境無く外国企業買収に走り、大怪我をしている。
「半沢直樹」に喝采する日本は、海外赴任を嫌い、海外留学を嫌う若者を始め、捨て身の韓国や暴力団中国の脅しに負けて、ただただ嫌韓、嫌中になる、上品なお公家さん社会だ。
想定外のコロナ事態も、「おおこわ!おおこわ!」と、ひたすら恐れて騒ぎ、ワクチン祈願に手を合わす。自分が犠牲者になる前提はなく、汚れを排除し、「早う官軍を派遣して反乱軍を鎮圧せんかいな!」と、喚くだけだ。
戦場にいる者は小さな傷を気にしている暇はない。格闘技を始めアスリートも、一般人と比べれば、怪我に無頓着だ。戦場に無傷は無く、コロナは突然襲ってきた正体の判らない敵との、戦争だ。
戦いはともに傷つくものだ。取るか取られるかの麻雀ではない。「倍返し」の発想は、戦勝国の賠償請求がナチスドイツを生んだ第一次大戦のように、日本に際限なく賠償を求める韓国のように、「人を呪わば穴二つ」だ。
自然災害に「倍返し」など要求できない。正体不明の巨大な相手、黒船との戦いは、先ず自己修復が第一であり、二度と攻められない思想と体制を作ることこそが、自らへの倍返しだ。
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