魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

お郷言葉

2015年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム

沖縄で、「うちなーぐちラジオ体操」が流行ったのに刺激され、全国の方言ラジオ体操が20以上も生まれているそうで、沖縄県内ではさらに、「島くとぅば体操」が幾つも生まれたそうだ。沖縄では、若い人で「うちなーぐち」が話せる人が少なくなり、これをきっかけに、「うちなーぐち」への関心が高まっているとのこと。

東京から離れているほど、標準語が普及して、北海道や沖縄の方が正確な標準語を話す人がいる。東京に近い地域ほど、微妙な違いに気づかず、中途半端な標準語を話す。
本州の中では、大阪弁は標準語と大きく違うため、大阪人は結構、きれいな標準語を話す。

父は、大阪育ちながら、言葉に関わることをしていたため、学校の宿題で、本の朗読練習をしていると、突然、「ちがう!」と、よく直され、父のいる時には、朗読練習をしなくなった。
そうして、言葉には、かなり、神経質に気を配ってきたつもりでも、関西弁の環境の中で暮らしていると、やはり、全く気づかないで使っている言葉が少なくない。

原稿の校正をしてもらったところ、「売っていた」が「売られていた」に直されていた。
何がおかしいのか解らず、東京の友人に尋ねたところ、「やっぱり、それはないよ」と、笑われた。
関西弁では、市場でトマトを見かけたら、「トマト売っとったで」と言う。
しかし、標準語で聞くと、それでは、トマトが鉢巻きをして、「さあ、おいしいよ、おいしいよ」と、商売をしている様が目に浮かぶ。
トマトは「売らない」、あくまで「売られる」商品だ。

友人に大笑いをされている間に、そのことに気がつき、自分でも、可笑しくなって、一緒に笑ってしまった。

言葉遣いは、単語やイントネーションの違いだけではない、概念の違いを含んでいる。
日本語の中でも、イメージや価値観、哲学の違いがあり、互いに誤解して、気を悪くすることが少なくない。
漫才ブーム以後、かなり近づいたが、関西弁では、感動を表すために、「ほんまか!」を連発する。東京に出た頃、これをそのまま置き換えて、「ほんと!」と、言っていたら、「人の言うことを、何でそんなに疑うの!」と、猛烈に怒られてしまった。
もちろん、なぜ怒られたのか、ワケが解らなかった。

近年、テレビによる全国同質化で、方言が消えかけると、かえって方言ブームが起こった。言語、生活が均質化することで、地域文化とのギャップに気づき、各自のアイデンティティに安らぎを感じ始めたようだ。家に帰って制服を脱ぐと、ほっこりする。そんな地方の時代が始まっている。


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