魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

新型文明

2010年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、ブレーキとアクセルのふみ間違いが問題になっているそうだ。
「何を、今頃?!」

18の時、自動車教習所で、真っ先に驚いたのは、ブレーキペダルとアクセルペダルの、紛らわしいことだった。
『何で、こんなヤヤコシイ所にあるんだろう?』そう、驚いたせいか、これに関するウッカリや、ヒヤットは経験がない。
(他のウッカリは、しょっちゅうだが)

余談だが、仏文科の友人が教習所で、教官に「brake」を指して
「この、ブラックって何ですか?」
・・・大いに、バカにされたそうだ。

ブレーキとアクセルが近ければ、「ヒル・アンド・トゥ」ができる、と言う説得力も、オートマ時代には無意味になった。
にもかかわらず、自動車の「様式」として、頑固に並べられてきた。

解消法はいくらでもある。
例えば、バイクのようにアクセルを手元にする。この場合、アクセルはボタン式とし、ブレーキが踏まれないかぎり、落ちることがないとすれば、ハンドル操作に問題はない。

ところが、トヨタの問題が起こってからも、アクセル配置はそのままの前提で、あれこれ対策案が出ている。固定概念は恐ろしい。

第一、とっくの昔に、完全自動操縦は可能になっているのに、頑固に人間に運転させようとしている。(自動運転
先日、ようやくGoogleが自動運転の実験をしていると話題になっていたが、その気になれば、いかに簡単であるかの証明に過ぎない。

問題は、自動車の製造者と政治家の頭の固さにある。
もちろん一般常識も問題だ。オートマが出た頃、あれほど抵抗があったが、今ではすっかりオートマになっている。
何より、製造者の革新性が最も重要ということだ。

高齢化で、これからますます、人間による運転は危険になる。
少なくとも、高速道路などの専用道路では、コンピューター制御による自動操縦で走れるようにすべきだし、そうでなくても、個々の自動車を完全自動制御に変えることは、それほど難しいことではないはずだ。人間と比べれば、よほど確かな運転をするだろう。
この問題は、政治家にかかっている。(車が無くても

しかし、何よりも重要なことは
徹底した、公共交通の充実だ。
高速鉄道と域内鉄道に、交通管制による無人電動カート・タクシーなど、自動車の無い未来社会を前提に、根本的に考え直す必要がある。
アメリカ方式の自動車社会を転換させる未来産業は、狭い日本だからこそ、可能なのだ


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