魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

規制文化

2020年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
国土交通省は、バスの混雑状況を確認できるシステム導入の補助金を、弱小バス会社に出すそうだ。コロナ対策のためらしい。
何か、ものすごいズレている気がする。

世界はコロナで、「羮に懲りて膾を吹く」状態だが、政治がその盲動を煽ってどうするのか。
政府としての、コロナに対する見解を、覚悟を持って発表しないから、国民はオロオロする。もう、「コロナは風邪レベルの流行病です」と言える事象が蓄積されている。もちろんその反対の見方もできるが、ここで判断を示すのが政治の仕事だ。
ところが、初めから今に至るまで、日本政府は責任回避だけを考えている。
だから、GOTOキャンペーンのように、「二階から目薬」ばかり施す。このバスの補助金も、コロナ恐怖症への気休めであり、どこにもコロナ戦略がない。

バス対策は、交通行政全般の規制改革として、コロナ以前から手を付けるべきものだった。
日本のタクシー料金の高さに、外国人は驚愕している。バス路線認可が下りないことで起こる様々なムダ・・・枚挙にいとまがない許認可の弊害だ。
「形」文化で、入口だけ厳しい日本だから、仕方がないと言えばそれまでだが、もう、世界基準に合わせるときだ。
入学、入社の「試験」や「式」より、実力、実体、運用の事実こそが重要だ。

最近、テレビで聞いた二つの言葉がある。
一つは、黒柳徹子が会った欧米の大物俳優は「少しも偉ぶっていなかった」という。中華の影響を受けた「らしさ」を求める日本社会とのギャップだ。
もう一つは、東国原元知事が、コロナに関する誹謗中傷は日本の監視社会ゆえだから、法律で罰則を設けて(ロックダウンなどの)行動規制をすべきだと言っていた。とんでもないことだ。日本の監視社会は法律の有無とは関係ない。こんな短絡で生まれたのが戦前の治安維持法だ。ますます監視、密告が正当性を得ることになる。「どげんかする」ばかりが、良策ではない。

これらの言葉の背景にある、日本人が気づいていない、「形の常識」が日本の可能性を萎縮させている。戦国時代や明治維新、そして敗戦による「タガの外れた時代」こそが、日本が大発展をした時代だった。
戦後の自由な社会から、成長発展を経て、75歳の日本は老化している。節々の老化に膏薬だらけで杖まで突いて、動きがとれない。あらゆる規制は、本当に必要なものではなく、東国原のような「やってる感」の自己満足の結果だ。そしてみな、利権の温床になった。

バスの混雑状況を知らせる前に、混雑しない交通行政を考えるべきだ。自家用車優遇を止めて、公共交通を主体にすれば利用者が増え本数も増やせるし、公共交通車両の形も変わる。バスとタクシーの利点を融合した形や、運用もできる。
バスの不便を解消するために、バスシステムの革新が必要だ。13年前に書いた、フレキシブルバスのヒントは、日本では見向きもされず、結局、中国で始まった。つまり、現実的な提案だったという事だ。今からでも遅くはない。経済戦略の一環として、バスシステムも、一から始めるべきだ。
→「バスシステム