魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

当たり前

2014年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ノーベル賞受賞は日本人として誇らしいことだが、以前、日本での高揚ぶりに、アメリカ人が不思議がっているコメントがあった。
「確かに素晴らしいことではあるが、日本では国を挙げて祝うのか!?」

日本の学術土壌の中からノーベル賞を受賞できたことは、日本の科学力の総合評価でもあるから、国全体で喜ぶのは自然のことだ。
しかし、一般アメリカ人にとっては、国の科学力は当たり前のことであって、その中で受賞者が出ても、それは、個人の栄誉であり、今さら国全体で祝うようなことではない。つまり、国はとっくに、他国と競うような次元を超えている。

敗戦の焦土の中で、湯川秀樹が受賞したときの日本人の喜びは、国民としての自信の回復であり、国を挙げて祝うことに意味があった。
しかし、その後、日本は幸いにも、国力、科学力が回復、向上し、国として追いつけ追い越せの時代を超えるところまで来た。これからの日本が、さらに向上していくためにも、ノーベル賞を特別な目標とするような視点を、変えるべきなのではなかろうか。

こういうことを言えば、まだ、非難さえ受けるかもしれないほど、日本の中にはコンプレックスが根付いている。しかし、よく考えてみれば、他人に与えて貰う賞に、なぜ国を挙げて祝わなければならないのか。
もし、仕事や業績を自らの目的のために行っているとき、他人が、賞を持ってきて、あなたを表彰しますと言ったところで、それは元来、「ああそうですか」ぐらいの問題であり、考えようによっては、表彰に来る人間の方が、こちらの業績に便乗しようとしているとも考えられる。

例えば、ノーベル財団が片っ端から断られたとしたら、それほどの権威として存在していられるだろうか。つまり、持ちつ持たれつなのだ。

科学を金儲けのため、自分のためにやっているアメリカの感覚からすれば、賞は歌の手拍子のようなものだ、あっても良いけど無くても良い。
あえて言えば、学者にとっての学位のようなもので、誰かが学位を取っても国中が喜ぶような問題ではない。

日本も、学術環境を社会化(学術立国)し、様々な賞も個々が競い合うものとしてみられるほどの、多様で成熟した先進国になるときだと思うし、既にそのレベルだと思うのだが、どうも、マスコミのレベルだけが、追いついていないような気がする。