魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

再生の道

2014年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

SONYがついに無配になった。ここまでの道は長かった。
本当は、とっくの昔に「既に死んでいる」
ベータかフラットテレビか、どっちが先だったか、今となっては思い出せないが、ソニーの驕りの象徴だった。

トランジスタ・ラジオ、ウォークマンと独自路線で大成功した体験が忘れられず、そのまま硬直してしまった。
物の無い時代にはそれで良かった。しかし、半世紀も過ぎる中で、世界の環境は激変した。

電化製品のコモディティ化、製造業のハイテク化の中で、技術よりもイノベーション、精神の活性化への提案が商品価値を持つようになった。

SONYの価値は、元来、トランジスタやテープレコーダーではない。トランジスタ・ラジオもウォークマンも、ライフスタイルの提案こそが価値だった。
にもかかわらず、SONYは自らの価値を技術の革新性だと勘違いした。

成功後のSONYは、ベータ、フラットTV、VAIO、MD・・・もう枚挙にいとまが無いほどの「独自路線」を打ち出し、結果的には、次々と失敗していった。
しかも、何れも、「オレに従え」の傲慢な独自規格だった。
今でも、デジカメのminiUSBさえ、別規格だ。

SONYには、腹を立てている。昔は日本の誇りだった。
だから、付いて行っては裏切られた。
こんな会社きっと潰れる。そう思ってから何十年も経った。一山当てた一家は三代は食える。SONYも、そう簡単には潰れなかった。

裏切られ続けたSONYには腹を立てているが、同時に、まだ未練がある。何とか再生して欲しい。
SONYが大きくなったのは、イノベーションだ。ジョブズが当たったのも革新性であって、技術ではない。

自身の本当の魅力を深く理解し、ウォークマンの名前など、過去の化石と決別しなければ、再生は無い。
そして、それができるのは、生え抜きの技術者でもなければ、経営のプロでもない。SF作家や芸術家のように、社会を斜めから見ている人たちの、直感だ。