魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

類型複合(3)

2014年09月06日 | 占いばなし

星や神殺、型など、占いの分類は何れも、一つの特質に過ぎず、何か一つで、全体像が決定されるわけではない。
何事であろうと、ものごとは、単体で成り立つものなどほとんど無い。物も、心も人格も動きも、全て複合体であり鑑定とはそのプロファイル創りだ。

占いを問題解決の手段として真面目に用いようと思えば、可能な限り多くのパターンを習得し、その多くの類型パターンの複合作用を観て、物事の本質を見極める必要がある。この点は、他の方法と何ら変わりない。
ただ一つ違うことは、実用性を重視し、再現性にこはだわらないことだ。つまり、占いは科学ではない。

複合体に向かい合う
例えば恋愛問題ひとつとっても、
相手がいて、自分がいて、環境がある。
今の状況はどうなのか、進むべきか、退くべきか、何一つ決まった答えは無い。すべてが複合体の相互作用だからだ。
型や星と呼ばれるパターンが複雑に絡み合い、何一つ同じものは無い。唯一、答えがあるとすれば、方向性だけだ。

複雑な人間同士の出会いは、銀河宇宙の衝突のように、激しく光を放って爆発するかと思えば、何事もなくすり抜ける。全てがぶつかるわけでもなければ、全てがすり抜けるわけでもなく、新しい星が生まれたり、消滅したりする。

相性が良いとか悪いと言うが、全てが良いわけでもなければ悪いわけでもない。また、状況次第で、良くも悪くもなる。そもそも、良し悪しには基準が無い。現象だけがそこにある。

占いの様々な要素も、素の姿がそのままあり続けるわけでもなく、出会いの相互作用で変化する。その時、変化する個々の基本要素が、いわゆる、星や型で説明されるものであり、巷で絶対視されるような、単純な固定の姿ではない。
物事は人体さながらに、単体の集積した複合体であり、同時にそれは一つの固体でもある。

したがって、ここで、占いの諸要素について語っている時は、その個々について決めつけや確信を持っているわけではない。一応、そう定義されているとか、そう仮定しての話の展開であり、その検証だ。何ら、趣味や感情を持たないつもりで語っている。

ただ、予断を持ってはならないと意識するあまり、時に、自らに関わる分類特質に、やや厳しくなり過ぎてしまうことがあり、却って、誤りのもとになったりする。
意識すればするほど、逆に完全な客観とか中立的立場というのは、やはり、あり得ないものだと実感する。

お化け屋敷
したがって、もしかして、占いに関する事柄で、自分のことが悪く言われていると感じる人がいるとすれば、魯生と同類なのかも知れない。
ただ、何であろうと、ここで語られることは、仮説や試行錯誤、考察であり、決定的に決めつける目的を持っていない。
ここで、予言のようなことをしないと、何度も断っているのも、そうした意図からだ。

また、パクパクを取り上げて、いい加減な迷信を言うなと言われても困る。
ここは、始めから市民権の無い、占いの世界の見方であり、お化け屋敷の客から「人を脅かすな!」と言われたら、お化けも困ってしまうだろう。


類型複合(2)

2014年09月06日 | 占いばなし

類型には実体が無い
当然、兄弟の立場による生い立ちの違いは人格にも影響するが、誰も自分を客観的には見られないから、自分がそんなものに影響を受けているとは思えない。
したがって、兄弟関係(家族関係)による、思考方法の違いは、相対的に客観化しないかぎり、理解できない。

しかし、類型による客観化は常に相対的であり、実在の人物に当てはまるものではない。類型は一つの参考指標、基準値に過ぎないからだ。
このことは、占いだろうが心理学だろうが同じ事で、型通りの人なぞ一人として存在しない。型は一つの理解の仕方、モデルに過ぎないからだ。

ところが、型を概念として理解しない人は、ストレートに現実として聞く。これが生兵法は大けがのもとであり、あらゆる占い話(占いの知見)が、一般に流布することで、迷信に堕ち込む原因となる。

市民権のある医学や心理学でさえ、例外ではない。
一般の人は一つの単語を憶えれば、その言葉のもつ多面性や領域を理解せず、画一的に当てはめ、弊害をもたらすことになる。
メタボ、DNA、××症候群・・・すべてそうだと言っても良いくらいだ。

余談だが、こういう言葉が一人歩きするブームは、一つには語感の持つ「濁音」インパクトもある。→「デング熱
また、日本語の場合、音声に加えて、漢字の字面もある。
日本で血液型が流行し、その弊害が取りざたされるまでに至ったのは、日本人の「血」に対する信仰心に加えて、「型」の確定的なイメージが、絶対に確かな印象を創出した。
もちろん、「型」は濁音で読まれる。

基本的に仮説
占学の立場から言えば、極めて迷惑な話だ。血液型は、一つの特質の類型化に過ぎず、万巻の書を持って論じたところで、あくまで可能性の追求に過ぎない。
血液型について様々な事柄に当てはめて語るのも、その姿を浮かび上がらせようとする試みに過ぎない。

しかし、占いの本質など興味のない一般の人々は、面白半分で、実体のない「人格」を創り出し、適当に人を中傷したり、また反対に、血液型そのものを何とか否定しようとする。残念ながら、血液型は、躍起になって潰さなければならないほど、確かなものではない。