魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

まほろば(5)集団自我

2010年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

日本と朝鮮は、いろいろな意見や感情があるが、単純に言ってしまえば、同根だと思う。
DNAでみても似たような分布比率になっている。
現代では、人種論など無意味であることが認識されているにもかかわらず、未だに双方には、人種の優劣などを言い争う人々がいる。

また、民族と人種の区別がつかない人も多く、互いに蔑視したり、嫌ったりしている。
この2000年の間に、外見的なカラーの濃淡ができたとすれば、朝鮮半島は、より大陸の影響を受け、日本列島は、縄文やアイヌなどの、原日本人の影響を受けたことだろう。

日本列島に、どれぐらいの渡来人が渡ってきたのか分からないが、様々な研究や、日本人の顔を見ていると、朝鮮人と日本人の人種的区別は、ほとんど無意味に思える。
もちろん中には、日本列島にしかない顔や、朝鮮半島にしかない顔はあるが、互いに違いを罵りあっている人の顔が、同類だったりする。

人種やDNAの多少の違いを言い争ったところで、不毛だが、民族文化は見るからに違う印象がある。
しかし、これも互いが違いにばかり目を向けているためで、笑えるぐらい同じこともある。

あやふやな概念であるにもかかわらず、人種と民族は常に殺し合いの種になってきた。これは宗教戦争と同じで、それを信じない者からすれば、ワケの解らないバカげた争いだが、取り憑かれている人間には、ギリギリの死活問題だ。

イジメられている人や、虐げられている人達のように、
苦しい境遇にある人ほど、自分が何者であるか知りたくなる。
苦しさに絶える理由が欲しいからだ。

「他から押しつけられた自分」をはねつけようとすれば、居直るしかない。他人の考えの方が間違っているのであって、逆に、自分こそが絶対に正しいのだと。

イジメられて、相手の全否定しか道が見つけられなければ、自殺になる。自殺は自己否定のように見えるが、自分というもの、自分の尊厳を守る最後の手段だ。自殺防止に大切なことの一つとしては、第三の価値観や生き方があることを、解ってもらうことだ。

個人には自殺しかないが、集団は、自分たちの全肯定に向かう。
奴隷の境遇から生まれたユダヤ教のように、不遇な立場を納得するため、「本当は自分たちこそが神に選ばれし者なのだ」という信仰が、他者否定となり、その生き方が、さらにまた新たな対立を生む。

同民族という信仰は、境界線の地域に現れる。中央から疎外され、自分たちが何者か解らなくなる時、自分たちの存在理由として、同民族意識が生まれ、それは同時に、排他的になり、争いの種を生む。
冷戦後の、強固な枠組みが失われた時に、地域紛争が頻発した。