魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

まほろば(10)複合体

2010年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

動物的な皮膚感や血族意識と、人間の文化が築き上げてきた理性は、相反するものではあるが、どちらか一方だけでは人間にならない。

人間が生き残るために生み出した智恵は観念であり、太古の意識が支配する現実とは相容れないが、非現実的だからと言って、無視するわけにはいかない。動物からの飛躍は、おそらく人類の使命だろう。

理性で生きる上で、まず捨てなければならないのは、太古の意識だ。
人種、民族、国といった、縄張り意識は、人類進化の障害になる。
いまや、個人、人類、地球、宇宙を、調和させる認識こそが、人類進化のカギとなるのではなかろうか。

ところが、この理性的思考をも、多くの人は皮膚感で受け止める。
つまり、理性的な議題を、好きか嫌いかで考え、その言葉が出てくるだけで思考停止する。人権、自由、民主主義、平和、エコ・・・、その言葉を唱えるだけで、何でも夢が叶うような宗教にしてしまう。

個人、人類、地球の調和は、相反する立場の一体化であり、夢見て祈るだけでは実現しない。
目の前にある、古い遺産を一つづつ解体し、一つづつ新しいものに置き換えていかなければならない。

その為には、世界中の人が客観的な情報を共有することが基本だが、情報化時代で、一歩近づいたとは言え、立場の違いや、古い力に押されて、とても一筋縄ではいかない。

皆が客観的な情報を共有するためには、まず、それぞれの立場・視点が違うことを知り、互いの違いを認め合い、共存し、その上で、互いが自らの意志で、統一に向けて、変わっていかなければならない。

最も間違っていることは
皆が一つになるために、均質の塊にしようとすることだ。
人間は皆同じ素材でできているから、ミンチに掛ければ、同じ形に組み替えられると思う。人間の本質を理解しない大バカ発想なのだが、歴史上の「善意に満ちた」たいていの征服者はそう考えた。

自分や自分達を大切にしたい気持ちは誰にでもある。それを無視して、お前はダメだから自分を止めろと言われたら、誰でも抵抗する。
既に1000年以上、一体化を享受していた日本は、アジア開放と言いながら、占領地を日本化することが「善意」だと思っていた。

これが後々にいたるまでの汚点となったのだが、日本人はいまだに、多様性より、一元化を良いことだと思っている。教育現場での悪平等と言われるものも、結局の所、日本人のマインドが変わっていないことを表している。

雑多な集まりでできた島国でありながら、あまりにも強固な一体意識が生まれたために、日本人は、一体化の過程を忘れてしまった。
しかし、日本こそが、多様性の一体化を実現した、おそらく唯一の複合社会であり、地球の将来にとって貴重なサンプルとなるだろう。