転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ポゴレリチに関してのみ、私の頭は、
(昔の)図書館のインデックスカードのように機能する、
・・・と以前、自慢したことがあったのだが、
中年になり、最近は衰えを実感するようになった。
ポゴレリチとデュトワの共演が以前にもあったかどうか、
と友人からメールで訊ねられて、即答できなかったのだ。

「ある、・・・みたいな。何かクるものが、ある」
とは思ったのだが、それがいつのどこでの演奏のことなのか、
来日公演でないのは確かなのにどうして私が記憶しているのか、
等々と悶々とするばかりで、到底、すぐには思い出せなかった。

それが先ほど、自分のカセットテープを整理していてわかった。
そうだ。まだポゴレリチがライブ演奏を放送することを許していた、
80年代のうんと初めの頃に、FMでやっていたもののひとつが、
デュトワとの共演の協奏曲だったのだ。
だから現地に行っていない私でも、知っていたのだ。

1982年1月11日ハンブルク・ムジークハレでの演奏会がそれで
シャルル・デュトワ指揮 北ドイツ放送交響楽団、
ソリストはポゴレリチで、曲は今回と同じショパンの2番の協奏曲。
日本でのオンエアは同年の8月17日だった。
ちなみにこの演奏会の後半のプログラムは、
ルーセルの舞踊音楽『バッカスとアリアーヌ』組曲第2番だった。

ポゴレリチ本人の演奏がそもそも、80年代はまだ(まだ?)
かなり折り目正しいものだったし、
あの頃のポゴレリチは、ショパンコンクールで世界の寵児となり、
事実上、弾けばなんでも「新しい!」「個性的だ!」と絶賛されたので、
この演奏会も批判的な批評は見かけなかったような印象だった。
一部には否定論もなくはなかったが、当時の日本では、
「頭の硬くない、見識のある人間は、ポゴレリチを理解している」
みたいな変な風潮があって、見出しは「賛否両論!」でも、
内容は結局、ポゴレリチの感性の斬新さを認めるというものが多かった。
吉田秀和氏が最初からポゴレリチを、全肯定ではないにせよ、
相当高く評価なさっていたので、その影響も大きかったかもしれない。

ちなみにフィラデルフィア管弦楽団とポゴレリチは、
少なくとも99年にアメリカで共演したことがあった。
それは99年10月14~16日のことで、このときの北米ツアーでは、
ポゴレリチはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を各都市で演奏し、
フィラデルフィア公演もその一環だった。
フィラデルフィアでの指揮はサヴァリッシュで、当時の報道によれば、
彼はリハーサルが終わる頃にはポゴレリチを見ようともしなかった、
とあり、本番ももちろんさんざんな出来映えだったようだ。

尤もさんざんだったのはサヴァリッシュとオケにとっての話で、
ポゴレリチはやりたいようにやって満足していたらしかった。
このときのラフマニノフの演奏時間は「50分」。
記事には「テンポが遅すぎて耐え難かった」ことや、
「タッチが硬すぎる」「オケがソリストに同意していない」
「ポゴレリチは自分の改革の問題にばかり没頭していた」
ことなどが、批判的な調子でかなりたくさん書かれていたものだ。
この企画での来日公演はなかったが、もし実現していたら、
このときこそホンモノの賛否両論になっていたのではないだろうか。

とりあえず十年以上前には、既にポゴレリチは
相当なところにイっていたらしいことが、改めてわかった(汗)。
しかし私の記憶にある99年11月の来日公演のリサイタルは、
「音楽の破壊」というような凄まじいものではなかった。
その前に聞いた97年の来日公演よりも、
むしろ落ち着いた演奏や解釈だと思えたくらいだった。
あの頃、協奏曲を聞かせて貰える機会が全くなかったことが
今になってみると、それなりに残念に思われる。
ポゴレリチはその一年後から全面的に療養生活に入ってしまうので、
90年代の終わり頃の彼は、多分、状態が悪かったわけだが・・・。

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