昨日観ていて思ったのだが、
この作品に関して、私がそれなりに楽しく観ていながらも、
最後のところで気分良くなれないのは、
多分、ウィリアムが「自分の気持ちに決着をつける」みたいな展開が
どうももうひとつ、はっきりと出てこないからだろう。
ステイシー側は、婚約者のアレンが自分から語り始めて、
彼女に本当の気持ちを気づかせ、「後悔したまま俺の横に座るな」
と暖かく送り出してくれるので、方向性がはっきりするのだが、
ウィリアムにはそういう場面が無い。
正塚先生としては、アリソンが去っていく場面のやりとりがそれだ、
ということなのだと思うが、そこが私の感性と合わないところなのだ。
ホテルに残るというウィリアムに、アリソンは、
「それが私への答えと受け取っていいのね」
と超人的な察しの良さを発揮するのだが(これの直前の場面まで、
ウィリアム自らアリソンを「僕の婚約者」と紹介していたのに!)、
観客である私には、この成り行きは曖昧すぎて苛々する。
『答えって何!!はっきり言え!!いつ、何を考えてそうなった!!
結婚は結局、誰とするつもりか、婚約破棄するならオトシマエは!!』
と迫りたいものがある。
私はやはり、ウィリアム本人が、はっきりと、
「アリソンではない、ステイシーでなくては!」
ということを、なんらかの言葉にして結論を出すところが聞きたかった。
今の脚本でもわかるし、全く言っていない訳ではないのだが、
私にとっては、言葉が少なすぎる。
終始一貫、某植田脚本みたいになんの話かわからない(爆)展開なら、
こんなこと初めから全然注目してないし、結果オーライでいいのだが、
正塚脚本はちゃんと筋が通っていて、意味のわかる話になっているので、
それにも関わらず、話の結論に関わる一番大事なところまで来て、
あのように曖昧にされてしまうと困る。
「上演時間、ちょっとだけ足りなかったの(--#)?」
みたいな不完全燃焼な部分を残して、放り出された気がする。
「言わないから良いのだ」
というのが正塚先生の美学なんだろうとは思うが、
私はもう、そういうのは好きではなくなってしまったのだ
(二十代の頃、ちょっといいなと思った時期があったのは認めるが)。
今回の脚本に関しては、私は、ステイシーの言い様じゃないが、
「ひとつだけ、いちばん聞きたかった言葉」すら、最後まで聞けなかった。
・・・出演者への不満はありません。完全に、脚本への不満です(^_^;)。
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よしこ様の不満は私の不満そのものでございます。
そこさえ何とかしてくれたらもう文句は言いません。
たかちゃんを観に、素直に全ツにも参ります。
ほかの部分は良いし、ウィリアムは良い男だと思うのですが、最後の納得感が足りないのが難なのです。観客に想像力で補わせることが効果的な場面と、それで済ませてはいけない場面とがあるのではないか、ということを私は今回、強く感じました。
しかし、それとは別に、私は全ツではこの作品は良くなるのではないか、という期待もしています。もっと少人数に絞り、背景のひとりひとりに至るまで誰が何をしているかが一目でわかる構成にすれば、観客の側に余裕が生まれ、この「わざと語らない」手法が生きて来る面もあると思うのです。
でも、ハリー氏には、やはりもう少し脚本の推敲を
お願いしたような気もします。
初日は、あの大きな梅田コマ劇場ですから。
全ツで、和央ようか様ではなくウィリアム・オダネル氏に
嵌れる作品になってくれたらうれしいです。
よしこ様は今回地元ですね。^^
全ツ以前に、東宝があります、なんと
三ヶ月に跨いで、、
こちらに来る前になんとか推敲できません
でしょうかねぇ
(ファントムも変わったことだし、)
何枚も~チケットある身としては~
祈りたい気持ち、、
まずは明日から、再確認の旅へでます。
よしこ様 お茶会ご報告有難うございました。
「少人数編成になればこの話はもっと良くなるのでは」
という妄想(^_^;)に取り憑かれたからです。
東京では同じ編成・同サイズの劇場ですもの~。
すみません<m(__)m>。
ですが確かにツアー以前に、東京で、
脚本が良い方向に変わるといいですね。
例えば『ロマノフの宝石』のとき、正塚先生は、
ルコさんのベルガー大尉の人物像を少し変えられ、
東京までに手を入れていらっしゃいましたので、
今回も、そういうことはあり得るかもしれません。
白砂様はきょうからお出かけですね。
お土産話を楽しみにお待ちしております♪
演出(演技?)にメリハリがついていました。
少しは、主役の気持ちの流れも出てきたような…。
目立たないコメントなのでつぶやいちゃいますと
実際、いつも宙組公演は、花ちゃんの役の方が
きちんと書き込まれて主役なんですよね。
だから、花ちゃん主役としてみたら辻褄は
合っているんです。今回の作品も。
聖なる星の奇蹟など、たかちゃんは一体何?
乙女の憧れの幻か?というぐらい実体のない役で
演出がよかったからまだましだったものの
私は大嫌いです。
主役のきちんとかけていない作品は嫌いですが、
たかちゃんが名ばかりの主役の作品はもっと嫌いです。
たかちゃん主体で作品を書いて欲しいし
そういう作品が、ほんの僅かなのが悲しいです。
出番が多かったり、ダンスをさせたりばかりでなく
もっと人間を演じさせてやってほしい。
ファントムや風共で、成長を確認できたのに、
こんな脚本でもあれだけ演じられるのに
勿体無い話です。
純然たる宝塚ファンサイトでは、書けませんが…。
よしこ様に甘えて…。
すみません。
亜樹様と全部同じではないかもしれませんが、私も、宝塚に関してははっきりと生徒さん主体で観ているので、作品が生徒さんを「見せる」ことに成功していないと、やはりイヤです。脚本的に良くできていても、生徒さんの良いところを前面に出す構成になっていない作品は、私としては、決して宝塚を観たという満足が得られないし、ベストにはなりません。
私が某・元理事長作品をしばしば評価しているのは、細部の整合性よりも生徒さんを見せる・紹介することにはっきりと力点が置かれ、そのことに成功している、と感じられるからです。前回の風共など、本当にそう思いました。演出はベタだし、話だけで考えたら展開なんか支離滅裂で、あれを物語としてみようとする人は怒るのも当然ですが、私にとっては次元が違っていて、あれほど魅力的な和央ようかを見せてくれた作品は、近年、あまりありませんでした。その点で、昨年の私的ベストと言って良い、素晴らしい公演だったと思っています。
その意味では、なんだか訳がわからなかったけど「聖なる~」も私は嫌いではありませんでした。フレデリックの和央ようかさんは、私が長らく「たかちゃん」だと思っていた姿そのままだったので、ファン的にはツボが多かったです。あれも話はめちゃくちゃでしたよね(^_^;)。
この観点から言うと、今回のステラマリスは、綺麗に心象風景を描いた作品であることはわかるのですが、私がたかちゃんを堪能できると感じられる箇所が少なすぎるのがやはり、不満のもとです。出番の回数やソロの長さとは関係ないです。ご指摘の通り、花ちゃんの物語としては観るべきところがたくさんありますよね(^_^;)。
某所にも書きましたが、花ちゃん、水くんカナミちゃんは勿論、タニちゃんにも、アヒちゃんにも、ともちんにも、あるいはポッポさんやタキちゃんにも、私が納得できる瞬間がきちんとありました。だのに、たかちゃんにだけ、それが無かったのです。いい線まで行きかけるのに、正塚先生は私の気持ちを知っているかのように(!)、ことごとく中途半端なところで切って下さっているのです(T.T)。かわりに、私にとってはかなりどうでもいい周辺のことにばかり、極上のセンスを発揮して、丁寧に描いて時間を取るのです。
あれは確かに私にとっても、「たかちゃんが名ばかりの主役をしている」作品です。多分、彼女の演じた役としては、私の記憶に今後長くとどまることはないと思います。
私は芝居を見に行っているのではなく(それもあるのですが、それだけなのではなく、むしろ)生徒さんを見に行っているのだ、と宝塚に関しては思っています。私が特定の生徒さんに徹底的に固定して執着するのもそういう理由です。この執着がなかったら、私はわざわざ宝塚くんだりまで日帰りで出かけたりはしないと思います。
宝塚に何を求めるかは人それぞれでいいと思っていますので、作品が駄目だったら話が始まらない、という観点で観られる方もいらっしゃるでしょうし、作品も出演者も両方だ・切り離して考えられない、というお考えもあることと思います。ただ、私は自分の実感としてこうだ、ということで、お許し頂くほかはないです(^^ゞ。
いきなりでこんなところに書き込んで
申し訳ありません。
夢のつぶやきで感想を書き込んでいた者です。
私は今回の作品を最初からステイシーに
自分をあてはめて見ていましたので
つい反応して出てきてしまいました。
というのは、私自身今男の多い職場にいて
学生時代も男の方が多い環境にいたので
ステイシーの色気のない職場トークや
幼なじみトーク、その中での恋愛にすごく共感できるのです。
間違ってもアリソンのような恋愛をしたことはありませんので、ちょっと共感できないのです。
ただ、私はステイシーに共感していましたが
このストーリーは辻褄はあっていませんでした。
ウィリアムはステイシーとの人生を選ぶか
アリソンとの人生を選ぶかによって180度変わると思うのですが、ステイシーは変わらない。
アレンでなくウィリアムな理由がわからないのです。(あくまで役としての話です)
初見では幕が下りたときになぜ主役をアレンに設定してくれなかったんだろう、
ハリーは20代のリアルな女性の気持ちを
わかっていないと思いました。
だからアレンの場面の後から私は
ステイシーに共感するのをやめて宝塚として見ています。
花ちゃんから見れば語るところが多いというのは
隣の芝生だと思うのです。
私としては主人公の魅力がどうだけでなく
ハリーがリアルを追究しながらつめでは
宝塚をやってしまってる不徹底ぶりに
私はあまり今回の作品を評価できないのです。
だったらもっと宝塚を見せてよと思ってしまうのです。
お書き込み下さいましてとても嬉しいです。
> 花ちゃんから見れば語るところが多いというのは
> 隣の芝生だと思うのです。
この箇所については、亜樹様の感覚とはまた私は違っているかもしれないのですが、私は「共感」とか「辻褄」を求めてはいません。今回の作品の花ちゃんに観るべきところが多い、と私が思うのは、作品が、「花總まり」という人を見せることに成功している、と思う箇所が私にとってはいろいろとあった、という意味です。
生徒さんの持ち味、生徒さんの良い表情、ほかの作品では観られなかった生徒さんの意外なしぐさ、などなど、私が「ほほう!」と思うものを見せてくれれば良い、ということです。
> ハリーがリアルを追究しながらつめでは
> 宝塚をやってしまってる不徹底ぶり
この箇所はかなり同意です。
ハリーはかなり「リアリティ」に目配りしていると私も感じます。でもうっかりとそれで観ていくと、終わりに向かうに従ってだんだんと「ありえねーー」「意味不明」になってしまい、なんだかしっくり来ない幕切れだった、という感じがしたのです。途中まで理屈でわかるのに、結末は「理屈じゃないんだよ」で締めくくっている、という。
多分、その「でも理屈では説明できないこともあるんだよ」というのもまた、ハリー流のリアリティだとは想像できるのですが、最初から感性の合う人はともかくとして、よくわからぬままに観ている観客に、そこまでいっぺんに理解してついて来い、と求めるのは、いささか無理があるのではと私は思います。
> だったらもっと宝塚を見せてよ
と私も思いました(^^ゞ。
どうぞまたご意見ご感想をご自由にお聞かせ下さいませ。
私の場合、大劇場は近いので、行き易いのですが、
私も生徒さんを見に行っているのだと思います。
でなければ、気に入らない作品でも、ウキウキと何度も
とても観に行けないと思います。^^;
確かに、私も作品自体は不出来でも、私の好きなたかちゃん、
私が見たいたかちゃん、気付かなかったたかちゃんの魅力を
見せてくれるなら満足できます。
そうでなければ、ガッカリしてしまいます。
どうも私は,宝塚へはたかちゃんを見に行っている
ようなものですね。
浮世の義理で、ほとんど全組の公演を観に行くのですが、
他の組の公演では、どんな作品でも普通に観られるのに
(あの児玉さんの「天の鼓」を観ても、何も突っ込まなかったぐらい)、宙組ではたかちゃん中心に観すぎてしまって
かえって、きちんと作品が見えてないのかもしれません。
次は千秋楽です。
最後(全ツは行く予定ですが)は、無になって楽しみます。
私も、たかちゃんが出ているかどうかで、
観ているところがかなり違うし、観る姿勢も違います(^^ゞ。他組に対しては、もっと寛大になれます。
『キレイだった。楽しかった。元気貰えた』
とニコニコして帰れることのほうが多いです。
これが、たかちゃんが出ているから、要求が特別に出て来るのです~(^^ゞ。些細な魅力でも見逃さないような見方もしますが、同時に、容易なことでは納得しないというような見方にもなっていると自分で思います。
私は東京公演を一応、お茶会に合わせて観る予定にはしてますが、東京はそれ一回です。あとは全ツです。文句たらたらなようですが、たかちゃんは観たいので、やっぱりとても楽しみです(^_^;)。
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