転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(写真は、南座最寄りの京阪電車『祇園四条』駅の、
劇場側出口の前に設置されていた、今回の公演案内。)

御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』という演目を
私は今まで全く観たことがなかったのだけれども、
今回、『(しばらく)』の衣装を見た途端、まず「???」と思い、
30秒ほどかかって、その違和感の理由がわかった。
柿色の長素襖ではあったのだが、例の巨大袖についている家紋が、
團十郎のところの三升でなく、菊五郎の替紋の四ツ輪だったのだ。
アソコが四角くない暫(爆)って初めて観たぞ。
音羽屋の松緑が演るとこうなるのかと、今更知った。
大薩摩の肩衣にも多分、四ツ輪がついていたのだろうと思うが、
私の席から私の視力でそれを確認するのは無理だった(^_^;。

(参考:歌舞伎十八番のほうの『暫』の衣装→歌舞伎「暫」風俗博物館))

『暫』も『芋洗い勧進帳』も、いずれも期待以上の見応えがあった。
存在に大きさと躍動感が漲り、松緑の陽の魅力が全開になっていて、
荒事ならではの楽しさを堪能させて貰った。
こういうものを見せられると、歌舞伎十八番としての『勧進帳』も
近いうちに松緑の弁慶で観たいものだなと想像してしまったが
(私はまだ松緑が演るのを観たことがないので)、
しかし『芋洗い』版の、素直で愛らしいくらいの弁慶のほうが、
今の松緑の持ち味には合っているのかもしれないとも思った。
歌舞伎十八番のは、うんとオッサンな弁慶もアリだと思うが、
芋洗い弁慶は、若くてお茶目なところに魅力がないと駄目だ。

それにしても、このように極限の体力勝負みたいな演目を、
昭和54年に二代目松緑(当代松緑の祖父。当時六十代半ば(O_O))
が務めていたことを番附(=筋書)の上演記録で読み、畏れ入った。
紀尾井町のおじさま、人間離れしてスゴ過ぎです。
ちなみにそのときの義経は、辰之助。
……ぁああああ、そうだったのか。観ていない(涙)。
当時の自分を殴りたい心境だが、
1979年4月というと私は中学3年生だったので、いくら痴れ者でも
国立劇場まで歌舞伎を観に行く身分ではなかった。
しかし、年月が流れ、辰之助の長男が暫も弁慶も立派に務める姿を
今やアラフィフの私が応援できるようになったのだから、
これはやはり幸せというものだなと、昨夜は思った。

松緑の全力投球の『暫』『芋洗い』を続けざまに観せて貰い、
いやもう、昼には二度目の『素襖落』も満喫したし、
ここまで楽し過ぎて私は眼福満腹、容量オーバー、
……と思ったところへ、菊之助の『京鹿子娘道成寺』がこれまた絶品で、
観劇にも別腹というものがあったことを実感した(爆)。
いや~、菊之助のこのところの美しさ、あれは一体何なのだろう。
思えば、この南座三月公演の制作会見の席上で松緑は、
「(『御摂勧進帳』は)菊之助さんの道成寺に繋がるように、演る」
という意味のことを言っていた筈だ。
それも確かに実現されていたことを、私は最後に感じた。

諸々、詳しいことを書く時間が取れたら、いずれ、また。

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