goo blog サービス終了のお知らせ 
転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨夜は、魚住 恵 ピアノ・リサイタルに行った。
@エリザベト音楽大学ザビエルホール18時開演。
プログラムは、以下の通り。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 変ロ長調 kv.570
ショパン:ピアノ・ソナタ 変ロ短調 作品35「葬送」
*****
ドビュッシー:『映像』第一集
武満 徹:『雨の樹素描Ⅱ―オリヴィエ・メシアンの追憶に―』
メシアン:『幼子イエズスに注ぐ20のまなざし』より
 「幼子イエズスの口づけ」
*****
(アンコール)ドビュッシー:『亜麻色の髪の乙女』


恵さんは広島が地元ではあるし、これまでも演奏会があるときには
できるだけ聴かせて頂くようにしていたのだが
(近年だと魚住りえ&恵『朗読ピアノコンサート』など)
ほかの奏者との共演や、協奏曲や室内楽の機会はあっても、
単独のリサイタルとなると、もしかしたら私にとっては、
20年くらい前の、彼女の帰国記念リサイタル以来かもしれなかった。

前半、磨き抜かれたモーツァルトは実に美しかったが、
私が更に惹きつけられたのはショパンで、
私がこれまで持っていた、「高度に完成された、端正な」恵さんの印象からは、
ちょっと想像していなかった葬送ソナタだった。
1楽章と2楽章は、私の予想よりテンポが速く、かつ激しく、
要所要所で、思いがけない音が重く響き渡る弾き方だったし、
3楽章の葬送行進曲には、清らかさと妖しさが混在していて、
今の彼女の年齢だからこその演奏ではないかと思った。
そして4楽章は、まるであの世からの独白だった。
多くの演奏ではこの4楽章は、疾走する不気味な音の洪水が、
墓場を吹き抜ける冷たい風のように響くと、私は思っていたのだが、
昨日の彼女の弾いたものからは、私は「声」や「言葉」を感じた。
ちょっと今まで聴いたことのない4楽章だった。
やはりショパンは、底知れないものを書いたのだと今更だが思った。
ショパンの複音楽は何層にもなっていて、際限なく奥の扉があり、
限られた弾き手だけが、その奥の世界を私達に垣間見せてくれるのだ。

後半は、恵さんならではのフランス音楽の世界だった。
彼女の感覚や音色は、フランスものに本当にぴたりと合っていて、
今回も実に見事だった。
更にこの後半の曲目では、楽曲の背景や成り立ちの解説も大変わかりやすく、
演奏者としてだけでなく、指導者や研究者としての、
恵さんの優れた面も存分に発揮されていた。
ドビュッシーから武満、メシアンに至る流れを概説しつつ、
印象派の定義、登場する調性や音階の特徴などに触れ、
限られた時間ながら、現代フランス音楽の導入として、
私のような素人にも、そのエッセンスがよく伝わる内容だった。

私自身は、日頃からメシアンに関する知識は乏しく、
今回の演奏についても、解釈について何かがわかるとは言い難かったが、
聴きながら、何故か強く連想したのが、ジョルジュ・ルオーの絵だった
(初期の濃いほうの絵ではなく、色が綺麗になってからの・汗)。
神への篤い信仰を、美しい色彩の中で描き尽くし、
その一方で太い輪郭線があり、ほの昏い主張も根底に確かに存在していて、
恵さんの描くメシアンは、私の心のどこかでルオーと繋がっていた。
一枚の絵の前から、しばらく動かずに眺めるように、
もっと聴いて、浸っていたいと思った、メシアンの世界だった。

ほかのピアニストにはあまりない切り口だと思うし、
恵さんには、また是非、こうしたリサイタルを企画して頂きたいと思っている。
モーツァルトから始まり、現代フランス音楽に向かう道筋を、
音楽史に沿って、側面から正面へとなぞるように聴いて来て、
最後にメシアンまで辿り着き、私は聴き手として、
とても恵まれた「メシアンとの再会」ができたと、昨夜は思った。

Trackback ( 0 )




広島の皆様

ちょっと珍しい曲目が取り上げられる演奏会があります。
YAMAHA広島店でチケットが販売されています。
また、私宛にご連絡下さいましたら
(メアドは拙サイトのトップページの一番下にあります)、
当日受付でお支払い&お受け取りになれるよう、お取り次ぎ致します。

魚住 恵 ピアノ・リサイタル~演奏 と おはなし~
9月15日(土)18:00開演エリザベト音楽大学ザビエルホール
モーツァルト:ピアノ・ソナタ変ロ長調kv570
ショパン:ピアノ・ソナタ変ロ短調作品35「葬送」
ドビュッシー:『映像』第一集
武満徹:『雨の樹素描Ⅱ~オリヴィエ・メシアンの追憶に~』
メシアン:『幼子イエズスに注ぐ20のまなざし』より『幼子イエズスの口づけ』
一般2000円 学生1000円
魚住 恵 ピアノリサイタル(HOC Music Group)


上記演奏会の翌日には、2台ピアノ ジョイントコンサートもあります。
チケットはYAMAHA広島店、ほか安芸区民文化センターまでお問い合わせ下さい。
或いは、私宛にメールでお尋ね下さいましたら、お返事を差し上げます。

塩谷 哲&松本和将 2台ピアノ ジョイントコンサート
9月16日(日)18:00開演安芸区民文化センターホール
ミヨー:「スカラムーシュOp.165b」
モーツァルト:「2台のピアノのためのソナタニ長調K.448」
塩谷:「Valse」「Spanish Waltz」

一般3000円 高校生以下2000円
チラシ(PDFファイル)(安芸区民文化センター)

***************

ブラボー:20年ぶり「実践会」…楽しんで関西再生(09月08日毎日新聞)

関西ブラボー協会なるものがあったとは、知らなかった(^_^;。
組織だってやっている、という意味では歌舞伎の大向こうさんみたいだし、
「ブラボー」を言う稽古があるなどというのは、宝塚の昔のFCの、
爆竹拍手の練習@武庫川OR日比谷公園、をつい連想してしまう。
いろいろな団体があるものだなと感じ入ってしまった。

確かに、聴衆が大人しすぎて、礼儀正しく拍手しているだけでは、
客席の感動を演奏者に伝えるには不十分だろう。
日本の聴衆は特に、BRAVOもBOOもないので、
演奏家にとっては、はっきりした反応があったようには見えず、
戸惑うこともあるようだ。
だから、聴いていて良い演奏だったと思ったときには、
大きな拍手に加えて、景気よくブラボーの声をかけることは、悪くないと思う。

しかし、ブラボーブラボーと形式的に叫ばれても興ざめだし、
組織的にやっているとなると、「ブラボーだけ言いに来ている人たち」だと
偏見を持って見られることもあるのではないかと思う。
また、これは曲目や演奏内容にもよるのだが、曲が終わるや否や、
余韻もヘッタクレもなく「バボーー!!!」な人がいると、
私などは正直なところ、台無し感が漂い、勘弁して欲しいと思うことが多い。
そんなとき、もしこれが、拍手が十分盛り上がったタイミングで
「ブラボー!」と声がかかっていれば、
いっそう客席も熱くなったかもしれないのに、などと思ったりする。

極論すれば、ブラボーは、タイミングが命で、
そこが一番難しいのだと私は思っている。
客席の熱い反応、と言っても一種類ではなく、曲や演奏によっては、
勢いよく終わった途端にワっ!!と総立ちになるのが相応しいこともあるし、
また、張り詰めた空気の中で、余韻から静寂に至るまでの一切を味わい尽くし、
一呼吸おいてから、怒濤のような喝采が沸き起こる、という場合もあるものだ。
だから、せっかく力を合わせてブラボーを根付かせようと努力するのであれば、
その都度、当日の曲目についても、事前に皆でよく研究して頂き、
なおかつ、そのときどきの演奏の空気を感じた上でのブラボーの呼吸を、
深く吟味して頂くことができれば、と思う。

Trackback ( 0 )




昨夜は、コジマ・ムジカ・コレギア第22回定期演奏会を
聴きに行った(@アステールプラザ大ホール)。
小島秀夫 音楽塾

小島先生の活動の素晴らしいところは、
精力的なヴァイオリン指導を長年継続なさっているにとどまらず、
その成果を生徒さん達が発表する場として、
室内楽やオーケストラの規模によるコンサート形式の公演を
様々に企画し、高いレベルで実現なさっていることだ。

ヴァイオリンを習う子供達は勿論のこと、ピアノや、
各種弦楽器・打楽器などを専門に勉強している生徒さんたちが、
「弓の会」や「ジュニア・オーケストラ」、それに今回の
「コジマ・ムジカ・コレギア」などの公演に参加することにより、
各種アンサンブルや、オケと共演するソリストの立場を体験できることは、
ほかでは滅多に得られない、本当に貴重な機会となっている。
しかも、取り上げられる曲目が多種多彩で、公演としての内容も高度だ。
昨夜の場合、楽章単位の抜粋も含めると全部で7曲の協奏曲が演奏され、
様々な年代の、色とりどりの形式の楽曲が、
若いソリストを迎えて存分に披露されていた。

プログラムは、以下の通り。
1. ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102(全楽章)
2. グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16より第1楽章
3. ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11より第1楽章
4. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58より第1楽章
5. モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218より第1楽章
6. クレストン:マリンバ小協奏曲
7. チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35より第2・3楽章

ここに登場したソリストたちは、小学生から大学生までの年齢だったが、
幼くても若くても、主張のある音楽は聴く者の心を捕らえるし、
高校生くらいになればもう、その音楽は立派な一人前の演奏として、
聴衆に訴えかけるものを備えているのだった。

私も聴きながら、いろいろなことを考えたり感じたりしたが、
特に思ったのは、才能のある子や学生さんは少なくないのだということ、
そして、才に溺れず志を曲げることなく成長し得た者だけが、
初めて演奏家としてのスタートラインに立てるのだということだった。
そして世界には、天与の才に恵まれた弾き手が、更にたくさんいる。
そうした人達に互して、大成し名をなすというのは、本人の研鑽だけでなく、
いくつもの恵まれた偶然が揃ってこそ、初めて実現することだ。
ここで演奏した前途あるソリストの方々も、どうかこの先、
損なわれることなく、大きく伸びて欲しいものだと思った。
これからの日々、このコジマ・ムジカ・コレギアで演奏した夜の思い出は、
彼女たちの原点として、きっと大きな力を発揮すると思う。


コジマ・ムジカ・コレギア定期演奏会~ふれあいチャンネルより(YouTube)

Trackback ( 0 )




先月、某ホールのフルコンサートグランドピアノの試奏会に行ったが、
きょうもまた、某区民文化センターでヤマハCFXの試奏会があり、
友人某氏が仲間に入れて下さったので、参加することができた
(ありがとうございました~!!)。
写真は、ステージに立たなければ見ることのできない客席風景、
ひとりだけ座っているのが、その友人某氏だ(笑)。
ああ、かのアレクサンダー・コブリンも見たのね、この景色を(爆)。

きょうは、さすがにハノンはしなかったが、
ツェルニー30番と、ショパンのマズルカ作品59-2を持って行った。
前回より更に練習できていない状態で試奏会を迎えてしまったが、
きょうは某氏と二人だけということもあり、
何かを披露するのでなく、とにかく練習のために弾く、と割り切った。
ツェルニーに至っては、練習曲を練習している、という滑稽さだったし、
マズルカのほうも、譜読みがだいたい出来ただけの段階だったが、
グランドで弾いて、自分で自分の音を確認できれば、と思った。

感想としては、あれがCFXの特徴なのか、それとも楽器ごとの個体差なのか、
私程度では詳しくわからなかったが、とにかく実に柔らかいピアノだった。
音も鋭角的でなくふんわりと響き、ペダルも軽くて意のままになり、
何をしても抵抗感の少ない楽器だという感じがした。
あれなら、マズルカはもっとペダルを控えても良さそうだった。
どんな打鍵をしても、何かに包まれているように音の輪郭がソフトで、
ペダルを使わなくても、音が裸にならないという感じだった。

うちのアプライトでこの曲を弾くときには、
ペダル(勿論、右の)を全く使わない箇所を作ると、
そこだけ突然に音が無防備になり、響きがおかしくなってしまうし、
かと言って、ペダルが固いので「ちょっとだけ踏む」のが難しいし、
どうしたものかと試行錯誤していたのだが、
きょうのCFXはペダル無しの音と有りの音の落差が、驚くほど少なかった。
12月の会で弾くときの、本番の楽器がもしもこのような状態だったら、
かなり弾き方を変えないといけないと思った。
勿論、実際に弾くときの会場はここのホールではないので、
楽器も全然違うし、多分、また別の意味で勝手が違うのだろう。
本番は楽器に慣れるまで、三回くらい弾かせて貰いたいものだ(爆)。

友人某氏のほうは、もうじき本番がひとつ迫っていて、
きょうは、そのための練習でもあったのだが、
前回7月の試奏会のときにも、某氏の演奏を聴かせて貰っているので、
あれから一ヵ月で、大きく完成度の上がったことが感じられた。
こういうことは、毎日練習しているご本人よりも、
久しぶりに聴く部外者のほうが、かえってよくわかるものではないだろうか。
こうして時々でも、たとえアマチュア同志でも、
演奏を聴き合うことは意義のあるものだなと、きょうは思った。
友人の進境を目の当たりにすることには、
大袈裟な言い方かもしれないが、やはり感動があったし、
私もまた、今の自分なりのレベルであっても、
少しでも良いものが弾けるように、これからまた頑張ろうと思った。

……と爽やかに決意したようなことを書いておきながら、私のことだから、
12月になったら結局またしても、「弾けてないよ~」と言っていそうだ(汗)。
そもそも私がヘタでなかったことなど無く、それは皆も知っているのだから、
「見苦しい言い訳をしない」というのも、今後の私には大事なことだな(^_^;。

Trackback ( 0 )




昨日は、午後から『広島サマーコンサート』を聴きに行った。
この音楽会は、広島を地元とする若い演奏家(の卵)たちが、
夏休みを利用して集まり、それぞれの成果を披露し合い、切磋琢磨する、
という主旨で毎年行われており、今年は25周年記念でもあった。
この会を主宰なさっている小嶋素子先生の門下生関係にとどまらず、
様々な若いピアニスト達を中心に、声楽や弦楽器の学生さんも参加して、
午後1時半から7時過ぎまで、大勢のソリストたちが次々に登場・演奏した。
二部構成のうち、私は主として第一部だけを聴かせて頂いたが、
いずれも意欲的な内容で、なかなか聴き応えがあり、楽しかった。

出演は学年順で、最初は高校1年生の演奏者から始まり、
16時過ぎまでの第一部の最後のほうは、大学1年生の方々だった。
後半の第二部は、大学生から大学院生までの出演となっていた。
中には、以前おさらい会を聴かせて頂いたことで、
名前を知ることになった生徒さんも何人かあり、
彼らが一段と成長して、有望な若手になりつつあるところを見るのは
地元の愛好家として、なんとなく保護者的な喜びもあった(笑)。

皆、若いからテクニックには自信があるのか、
それとも本番の気分の高揚がおさえられないからか、
かなり速いテンポで弾く人が多いような印象が、私にはあった。
ショパンの難度の高いエチュードやプレリュードを、
いきなり疾走するような勢いで弾き始めるのを聴くと、
その速さで最後まで行けるのか!?と客席にいて心配になったりしたが、
皆、たとえ途中で危うくなっても、とにかく弾ききっていたのは見事だった。
そういう、ふらついた箇所があっても力で押してしまうような、
良い意味での強引さは、発展途上の若い学習者たちならではだと思った。

一方、途中で一瞬止まったり、弾き直した人達もあり、
本番のステージの「魔」なのだろうな、という怖さも感じた。
ほかの実技系でもよくあることだが、誰かがこれに捕まると、
次の人にも伝染してしまって、途端にミスタッチが連続したり、
暗譜が落ちそうになったりして、崩れる人が続出することがあるのだ。
しかし昨日の演奏者は皆、こういうところでも、
弾き直しているうちに、ちゃんと短時間で元の演奏に戻ることができ、
やはりレベルの高い生徒さん達であればこそだと、感じ入った。
失敗しないように弾くのが第一ではあるけれども、
誰しも偶発的なミスは避けられないのだから、
現実に失敗してしまったときの対処の仕方も、ステージでは大事なのだ。
そして、仮に、止まってしまうほどのミスがあったとしても、
やはり音の綺麗な人は綺麗なのであり、基本的に巧い人は巧いのだ、
ということもはっきりと感じられた。

骨格としてはとても良いのに、細部が雑に聞こえて残念、
というタイプの演奏も、何人かあった。
ステージアピールが鮮やかで、大変に惹きつけられる演奏なのだけれど、
ちょっとしたフレーズが粗雑だったり、ペダルが大味だったりして、
聴き手としては「あと一歩、忍耐して丁寧に仕上げてくれていたら…」
と、そういう人の演奏を聴くと、つい想像させられてしまった。

オマエ自分が弾けないくせに、どこまで偉そうなんだ!?
というご批判もおありかとは思いますが(^_^;、
良いのだ、弾き手としての私は、ド素人の極みであり趣味のおばさんなのだから。
そもそもが、私は彼らと同じ土俵で発言していない。
昨日弾いた方々は、この先、お金を取って弾くようになるであろう人達であり、
自分が楽しく弾けていれば良い、という次元でやっているのではない筈だ。
そして、私は将来、お金を払って彼らを聴くほうの側にいる人間だ。
であればこそ、私は、存分に、得手勝手な要望を言わせて貰うとも(笑)。
彼らが近い将来、相手にせねばならない「聴衆」「一般大衆」とは、
例えば、私のような人間のことなのだよ(笑)。

Trackback ( 0 )




平日4時という公演で、行けるかどうかわからず、
直前までチケットを買っていなかったのだが、
主人がマツダスタジアムにカープを観に行くことになったので、
私もこれ幸いと(殴)、この演奏会に出かけることにした。

『第4回 広島文化賞新人賞受賞者成果発表会』という位置づけで、
出身地の聴衆への挨拶の意味合いもあり、ピアノ・ソロ曲としては
一般によく親しまれている曲目を中心にプログラムが組まれていた。
また、彼女の友人でチェリストのカーリン・バーテルスを共演者として迎え、
定番のチェロ曲や、リヒャルト・シュトラウスのチェロ・ソナタもあり、
弦楽器との共演ぶりを聴かせて貰える面白さもあった。

第一部:リスト『愛の夢』第3番、『ラ・カンパネラ』
 エルガー『愛の挨拶』作品12、ポッパー『ハンガリー狂詩曲』作品68
 ラヴェル『ラ・ヴァルス』
第二部:シュトラウス『チェロ・ソナタ』作品6

全体の印象としては、今の麻未ちゃんの感性に一番添ってくれるのは、
やはり、ラヴェルやドビュッシーなどのフランスものなのだろうな、
という感じがした。
どの曲も、実にはつらつとした良い演奏ではあったが、
ラヴェルの『ラ・ヴァルス』になったら、曲との一体感が俄然上がった。
手の内に入っている、よほどの得意曲だったのか、
それとも彼女に今まさに「降りて来ている」曲だったのか、
背景は全くわからないが、この曲での彼女は自由自在に見えた。
また、アンコールのドビュッシー『亜麻色の髪の乙女』の、
瑞々しく叙情的な世界も、本当に素晴らしかった。
フランス風の、音の揺らぎやデリケートな和音の中に、
現在の麻未ちゃんの最も良いところが発揮されていたと思った。

チェロとの共演では、仲の良い二人らしく息がとても合っていて、
特に、冴えたリズム感には若い人ならではの魅力があった。
同時に、シュトラウスの二楽章の、チェロの内攻的な深まりも素晴らしく、
あのような曲になると、麻未ちゃんのピアノが歌うところも、
しっかりと堪能させて貰えて、とても良かった。

最後は、麻未ちゃんとカーリン・バーテルス嬢のトークがあり、
まずはカーリンがご本人の希望により特別に日本語で挨拶をし、
次に、二人がパリ音楽院の楽曲分析のクラスで初めて出会ったことや、
一緒に演奏をするようになった経緯など、いくつかの思い出を、
カーリンがフランス語で話し、麻未ちゃんが日本語に直し、それから、
「話すより弾いたほうが良い!」
ということになって、拍手の中、アンコールに移った。

曲目は、二人でドヴォルザークの『ユーモレスク』チェロ版、
ピアノソロでドビュッシー『亜麻色の髪の乙女』、
そして、改めて二人揃って登場し、
カーリンが日本の曲をやりたいと望んだから、とのことで、
「(よく知られている曲なので)曲名は、聴いてのお楽しみです」
と紹介されて始まったのが、成田為三『浜辺の歌』。

聴衆への配慮が行き届いていて、意欲的な挑戦も随所にあり、
なおかつアンサンブルの魅力も披露してくれて、
なかなか聴きどころの多い、良い演奏会だったと思った。
欲を言えば、いつかまた先のことで良いから、
今度は、サービスなどあまり考えずに、麻未ちゃんの弾きたい曲ばかりで
プログラムを組んでリサイタルをして貰えたら良いなと思っている。
現在の彼女の、感性の閃きとか音楽への没入などが、
麻未ちゃんの強い個性や魅力を支えていると思うので、
言葉は悪いかもしれないがもっと「自分本位」な演奏会があっても、
彼女なら良いのではないか、と聴きながら感じた。

Trackback ( 0 )




演奏家の言動がオカしいことについては、私は長年鍛えられているので(爆)、
いちいち驚かない自信があったのだが、しかし、かっつぁんまでこうなのか、
と、この記事にはちょっと困惑させられてしまった。

Getting the Audience’s Attention, and Keeping ItThe New York Times

上記は、7月17日付のNYタイムズの記事で、シプリアン・カツァリスは、
16日、マネス音楽院の音楽祭の一環で行われた彼のリサイタルにおいて、
一度ならず聴衆に向かって舞台から語りかけたことが書かれている。

まずカツァリスは、演奏を始める前に、挨拶をしてから、
『演奏を客席で録音しないで貰いたい。それは窃盗や強姦の如き行為だ』
という意味のことを言った。
演奏家として正当な抗議であるし、カツァリスにはその権利があるのだから、
主張内容は取り立てて奇妙なものではないが、
記事中でも指摘されている通り、
聴衆に向かって苦言を呈してから演奏会を始めるのは
決して幸福なことではなく、最善のやり方とは私にも思われない。
彼がわざわざこのように発言をせねばならないような出来事が、
最近何かあったということなのだろうか、と少々気になった。

それから、カツァリスはリサイタルを開始し、
シューベルトの後期作品から、ハ短調アレグレットと、
D 946の『三つのピアノ曲』のうちの初めの二曲を演奏した。
そして、その次がベートーヴェンのソナタ『悲愴』だったのだが、
カツァリスは、なんと第一楽章が終わったところで再び聴衆のほうを向いて、
『記憶は、トシを取ることの親友とは言えない。皆さんも注意して下さい』
(↑直訳)とふざけた調子で言ったそうだ(O_O)。
それから第二楽章の演奏に入った、というのだが、
…もしもし!?本番のソナタの途中で演奏家が喋るって、アリですか!??

カツァリスの発言が文字通りだとするなら、
年齢が上がって来ると暗譜がキツい、
という意味だろうと思うのだが、完全に本気で言っているのであれば、
譜面を見て弾けば良いだけのことでは?と聴き手としての私は思う。
少なくとも、『悲愴』の楽章間に、口頭でなんだかオマケがつくよりは、
暗譜は放棄しても、ひとまとまりで演奏したほうが良さそうに思うのだが、
話はしてもOKで、暗譜だけは最低ラインとして崩せないものなのだろうか。

暗譜で、かつ自在に存分に演奏できる、というのが
スタイル的にも、また慣習の面からも理想であることに全く異論は無いが、
「暗譜」と「納得できる演奏」との二択なら、私は聴き手として後者を望む。
音楽が犠牲になるような暗譜には、残念だが価値は無いと思うし、
また、暗譜の能力に問題がある・無いに関わらず、
譜面を見て弾いたほうが、より多くのものを引き出せると感じたときには、
演奏家には、むしろ積極的にそうして貰いたい。
……のだが、どこかのピアニストが40代から譜面見て弾いていたので、
私は変なふうに慣らされ過ぎですかね(爆)。

尤も、カツァリスの演奏は、このあとは素晴らしかったようだ。
二楽章は詩情あふれる鮮烈な演奏であったということだし、
終楽章のロンドも、『繊細』『明快』『活発』を兼ね備えた、
目覚ましいものであったと賞賛されている。
余裕綽々で完全にリラックスしていたから、客席に話しかけたりもした、
というのなら、かえって良いのかなと思わないでもないのだが、
…どうなのだろう、私はまだまだカツァリスをわかっているとは言い難い(^_^;。

そして、休憩を挟んでのプログラム第二部においても、
またカツァリスは舞台上から聴衆に向かって声を発した。
と言っても、今回は演出上も意義のある、詩の朗読だった。
リストが『孤独の中の神の祝福』を書くきっかけとなったと言われる、
アルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩を、
カツァリスは最初にフランス語で、次に英語で、読み上げたのだった。
後半のプログラムとしてはカツァリスは、この曲に加えて、
リストのピアノ協奏曲第2番の、自作のピアノ独奏用編曲版を披露し、
その見事な演奏と大胆な編曲に対して、相応の喝采を浴びた。
リサイタルそのものとしては、最終的には成功だったと言えそうだ。

カツァリスはそもそも、今年4月に来日予定があったのだが、
手の腱鞘炎のために一旦延期になり、来年の1月・3月へと振り替えられた。
私も今年4月21日の兵庫公演を買っていたので、チケットはそのまま手放さず、
1月の演奏会を(娘のセンター試験直前にも関わらず)楽しみにしているのだが、
プログラムは、やはり当初発表されていたベートーヴェン『皇帝』の
ピアノ・ソロ版を含んだもののままなのだろうか。
上記のニューヨーク公演でも、リストの2番をソロアレンジで弾いたとあり、
昨今のカツァリスは、そうした編曲ものに熱意を燃やしているようだが、
私は、カツァリスならば、普通にリサイタル用の作品を弾いてくれれば、
十分に満足だし、曲目によっては、そういうものこそ聴きたいかもしれない。

演奏活動に復帰しているところを見ると、腱鞘炎の経過は良さそうだが、
記事の印象からは、カツァリスは精神面で満たされているとは言い難く、
日頃、何か不快に思っていることがあるのではないかと、少々心配だ。
私はいつも書いている通り、カツァリスには全幅の信頼を置いて来たのだが、
彼ほどの人でも、なかなか手放しで安心して聴くわけにはいかないものだな、
と、この記事を読んで今更だが思った。
どうか1月の来日公演が、良いものになりますように。
待ちわびた日本のファンにとってもそうだが、何より、ご本人にとっても……。

Trackback ( 0 )




来月再び、前回とは違うホールの試奏会に参加できそうな見通しになったので、
できる範囲でマズルカ作品59-2を練習して行こうと思っている。
そうだとも。今度はもう、ハノンではないのだっ!
左手が飛ぶところでモタついたりハズしたりしている間は、
全くマズルカにならないので、たびたび手元を見ないでも弾けるように
まずは音と鍵盤の位置とを、自分の中に定着させないといけない。

ショパンは、こんなシンプルな曲でも音と音との距離感が独特で、
手の開き具合が、普段弾いているものとは違い、私には苦労が多い。
以前、ベートーヴェンのソナタ5番を練習していたときには、
全然弾けていないくせに、要所要所をかっきりキメようと張り切り過ぎて、
挙げ句に肘から手首にかけて筋肉痛みたいになったものだが、
今回は、今までに無かった変な角度で手を開くことを繰り返し過ぎて、
そのうち手の甲かどこかに、神経痛が起きそうな気がする(^_^;。
手を痛める弾き方では結局、音楽も駄目になるから、注意しなくては。

折しも、『この際きちんとパデレフスキ版の楽譜にあたるべきだと思う』
という意味の助言を某氏から頂き(ありがとうございました!)、
それは確かにその通りだと反省をし、
きょうの午後、外出したときに楽譜屋さんに寄って、買ってきた。
たとえ腕前は駄目駄目でも、真面目に弾く気持ちがあるのなら、
出発点である楽譜をケチっている場合ではないだろう。
入門者のくせに、オリジナルテキストを見ることを怠っておいて、
教科書ガイドで間に合わせようというほうが、やはり間違っている(^_^;
(ということは、きっと原典版のヘンレ版も見るべきなのよね、本当は)。
そういえば5月7日の協奏曲のとき、ポゴレリチもパデレフスキ版を使っていた。
キリル文字で書かれていたので、彼のはロシア語訳だったと思うのだが、
表紙のデザインやロゴがパデレフスキ版のものだった筈だ。

また、『2番を弾きたいなら、まず59-1も音だけでも出してみるのが良い』
という助言も同じ某氏から頂いていたので、夕方、家でそれもやってみた。
私の場合、もともとが全くまともに弾けないわけだから、
初見では三拍子の維持も出来ていない、激遅マズルカにしかならなかったが、
そのせいもあり、改めて、ショパンの和声って本当に複雑怪奇だ、と思った。
59-1は特に転調の斬新さが聴きどころではあるが、それにしても、
ショパンの曲の場合、59-2でもその他の曲のどれでも、大なり小なり、
テンポを保って音楽が流れているときには、容易に表層に出て来ない、
ハーモニーの不気味さが、音楽の深層構造に隠されていて、
ゆっくり弾くとそれが独特のかたちで顔を出すように思う。

2005年のポゴレリチ東京公演のときなど、彼の独特のスローテンポで聴くと、
ショパンもラフマニノフも、どうかすると同じくらいの時代の、
かなり似通った形式に音楽に聞こえて、結構、衝撃的だったものだ。
『普通の』テンポで聴いたとき、ショパンとラフマニノフの区別がつかない、
などとは、それまでの私には考えられないことだったのに、
テンポを落とすと、ショパンから、物凄く現代寄りの和声が響き始めて、
しかも、とてもキショク悪い(殴)複音楽になっていることがわかったのだ。
ラフマニノフがああなったことには、さほど意外さは感じなかったが、
ショパンでああいうことをされると、目から鱗、というより、
目からコンタクトが落ちたようなショックだった。
以前は鮮明に見えていたものの輪郭が、皆にじんだり歪んだりしたのだから(爆)。

だが私が今、積んだり崩したりしているのは、勿論、もっと手前の次元の話だ。
ショパンに隠された高度な意味での不気味さにはほど遠く、
単に、ひどくヘタに弾いたショパンだから、
和音の個性が収まりの悪さとして響いて、キモち悪い、という要素が大半だ。
なので、目下とにかく練習あるのみで、音を覚えテンポを維持して、
キショくないところまで組み立てるのが目標だと思っている。
打鍵もペダリングも稚拙の極みで、洗練されていないが、
素人の趣味の演奏だから、とても低いところに限界があるのは致し方ない。
あとは最低限、ワルツじゃない三拍子に、なってくれると良いのだが(爆)。
最善を尽くしたいとは思いますが、このあと冬の発表会で、
私が弾くときに聴かされる順番になってしまった方は、
是非、シートベルトたすきがけにしてから、お願いします(^_^;。

Trackback ( 0 )




ショパンのマズルカ作品59-2を弾く気になるなんて、
ワタクシの人生でもう二度とないかもしれないので(笑)
この機会に、私なりにマズルカに親しんでみようと思い、
昨夜は久しぶりに、フー・ツォンのマズルカ全集を聴いた
(83年録音。ビクター音産 VDC-5048/49)。
これは歴史的な名盤ではないかと、私は長年、心密かに思っているのだが、
世間の評価はそうでないらしくて、廃盤になって久しい。
実に残念なことだ。

ほかに誰か、面白そうな人が弾いていないかと手持ちのCDを探したが、
作品59-2は、どのピアニストでも必ず取り上げるようなものではないらしく、
フー・ツォンとポゴレリチを除くと、私はこの曲のCDを持っていなかった。
それで、amazonやhmvでも検索してみたが、「マズルカ集」という題名でも、
「全集」で無い限り、作品59を取り上げるピアニストは多くなかった。
その中で、私にとってショパンの王道であるダン・タイ・ソンのマズルカ集と、
『酔っ払っている』と大変に評判の悪い(笑)サンソン・フランソワのを
この際、買ってみることにした。

ちなみにポゴレリチは、ショパンのマズルカの中で唯一、作品59だけを
コンクールでも演奏会の場でも弾いていて、来日公演に関しても、
初来日だった81年のほか、91年と99年のリサイタルで演奏している。
私自身、初来日以外の二度は、実際に演奏会の場で聴いており、
もしかしたら、私が一番回数多く、生で聴いた作品59は、
ポゴレリチの演奏ということになるかもしれない。
数あるマズルカの中で、なぜ彼がこれを選んだか、なかなか興味深いことだ。
しかし、作品59-1と59-3は非常に強烈な演奏だった覚えがあるのだが、
どういうわけか、彼の59-2のことは、あまり私の記憶に残っていない。
いつも彼のは、三曲でひとまとまり、という弾き方だったせいか、
2番は、陰影深い3番のための、「陽」的な前振りというか、
3番を引き立たせるために存在する曲、という印象だった。

ポゴレリチが80年ショパンコンクールの三次予選で、
作品59の三曲を弾いたものが、ライブCDでは出ていて
(LASERLIGHT14061-14065『GREAT CHOPIN PERFORMERS』)
私はそれを持っているので、今も聴くことができるが、
デビュー以降、グラモフォンから出した一連のCDおよびDVDの中では、
彼はこれは弾いていないし、
DVD『ワルシャワの覇者』にも収録されていなかった。
ポゴレリチの弾いたマズルカというのは、こうなってみると、
結構、貴重なものだったかもしれない。
(ちなみに彼は、デビュー後にはショパンのワルツは一曲も弾いていない。)

このあと、私がこの曲をなんとか弾いて、しばらく経った頃に、
来日公演でまた、ポゴレリチが作品59を取り上げてくれないかと
今は漠然と夢見ている(^_^;。
自分でまがりなりにも弾いたあとなら、私の聴き方も違っているだろうし、
何より現在のポゴレリチなら、59-2をかつてなく印象的に弾くだろう、
という気が、今回の来日公演を聴いた今となっては、するからだ。

……というワケで、引き続きシコシコと練習したいと思いますが、
ペダルでこれまでになく細かく試行錯誤したために、
右足の親指の付け根付近がそろそろ痛いです(爆)。
断じて、これは痛風発作じゃないからね。
練習専用のビーサンでも買うか……。(で、本番も履いたりする。)

Trackback ( 0 )




午前中、松本和将氏のペダル講座を聴きに行った。
きょうの会場で聴講なさっていたのは、ご自身で演奏なさる方々や、
生徒さんを指導なさっている先生方が大半だったと思うので、
私のような、学習者かそれ以下の者が混じって申し訳なかった。
「ペダル!!ペダルだけ習うの!?踏むだけじゃないの!?」
と、朝、娘が呆れていたが、そうなのですよ転娘さん。
ペダルは、その『踏むだけ』が一生モノの課題なんス。

折しも私は先日来、ショパンのマズルカ作品59-2をもたもたと弾いていて、
譜面に書いてある音を拾うこともさりながら、
何よりペダルをどうしたら良いか全然わからんな(T_T)、
とゼツボー的になっていたところだった。
自分の楽譜(大昔に買った全音のショパン・マズルカ集)の指示通りに、
ペダルを使っているのに、踏んだ途端に曲が物凄く変になり、
かと言って、使わないともっととんでもないものになり、
踏み込みの深さや効かせ方など、一応考えたつもりではあったのだが、
それ以前に、どうも私は、ペダルを根本から誤解しているのではなかろうか?
と、このところ、かなり困惑していたのだった。
それで、きょうは何か答えがあるかと思ったのだが、
……答えは得られたが、ある意味、もっとゼツボー的になった(爆)。

松本氏の実演と解説を聞きながら、
ダンパーペダルひとつでも様々なことが実現可能であると知り、
更に、絶妙にコントロールされたシフトペダルを組み合わせると
際限なく多彩な表現があり得るということがわかり、
また、ペダリングと打鍵のこの上なく繊細な関係も目の当たりにし、
……たのは、すべて、本当に本当に良かったのだが、
それらは、私には、もうもう、とてつもないことばかりで、
聞けば聞くほど、『わしゃ無理っっ!!!』の心境になった。

勿論、ペダルへのアプローチはひとつしか正解がないわけではなく、
松本氏は、箇所によっては、ペダルを使用しないという発想も適宜含めた上で、
様々な楽曲について、具体的に説明をして下さっていた。
きょうのお話にも出ていたが、例えばゲルバーはほかの多くのピアニストより
足が不自由であろうから、彼のペダリングは一定の制限の範囲内のものであり、
そのぶん打鍵のコントロールで、大半の表現を実現させていると思われる。
つまりピアノは、ペダルに依存して初めて成り立つ楽器というわけではなく、
ペダルを限定的にしか使用しない奏法も、ある、ということになる。
しかしそれは極めて高度な次元の話だ(汗)。
ピアノが、打鍵だけでどうこうできる楽器でないことは明らかだし、
弾き手は、やはりペダリングの研究をおろそかにすべきではなく、
出来うる限り、追求し熟練するに越したことはないのだ。

とりあえず私は、曲を台無しにしているだけの、現在の自分のペダリングを
今回のマズルカを勉強することで、多少なりとも改善せねばならない。
我が家にあるのは、最小サイズに近いアプライトだけだから、
シフトペダルの表現については当面、ほとんど考えられないが、
最低限、マズルカのリズムが、何か別の意味不明な三拍子になってしまわないように、
ダンパーペダルの使い方、特に、タイミングと深さについて、考えたい。
先日、調律のとき油を差して貰って、ぎしぎし言わなくなったことだしぃ(爆)。

Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »