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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



現地時間11月26日20時に、ピアニストのグリゴーリー・ソコロフが
パリのシャンゼリゼ劇場でリサイタルを行うことになっている。

Grigory Sokolov(AMC)

私は以前から、この人の演奏を生で聴いてみたいと切望しているのだが、
彼は来日しないピアニストなので、私がヨーロッパに出向く以外に無い。
だから、これまでのところ、私が彼の演奏会に行く夢は、叶っていない。

ポゴレリチが縁で知り合うことになった、パリ在住の日本人マダムお二人が、
このソコロフのパリ公演にお出かけになるそうで、ご感想が楽しみだ。
ああ、できることなら、どこでもドアを使って私もパリに行きたいものだ。
何も私は、何光年も飛び越えて宇宙に行こうというのではないのだ。
ジェット機でほんの半日ほどの距離を、せめて数時間で動きたいというだけだ。
ワープの概念が、広く世の中に知られるようになったのは1960年代だが、
あれから半世紀が経過し、物理学の進歩もめざましいものがあるというのに、
どうして未だに、ワープ航法が実用化されないのか。

……と某マダムのひとりに訴えたら、
「よしこさんと私で、半身ずつだといいのですが」
と(掲示板上で)言って下さった。
本当に、時空を超えて合体できるなら、半身でも喜んでご一緒させて頂きたい。
と思っていたら、もうおひとりのマダムまで、
「私とよしこさんも半身ずつにしたらよしこさんは全身でコンサートにいらっしゃれますね」
と、乗って下さった。ああああ、ありがとうございます(T_T)。


……しかし、それだと、あしゅら男爵」が二体になってしまいますな(爆)。
しかもそれぞれ、右(左)半身だけ、やけに肥満しているという。
ああパリの夜。ソコロフもビックリ(O_O)。

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……ということで、昨夜のコブリンの話の続き。

 ベートーヴェン:自作主題による32の練習曲 ハ短調
 ブラームス:4つのバラード 作品10
 ショパン:12の練習曲 作品25

本プロは、この三行が書いてあるだけで、
コブリンの主張、……もしかしたら「エゴ」かもしれないが、
何か、そういうものを感じさせ、聴く前から「これは一筋縄ではいかない」
という雰囲気があった。
初めて公演する地方都市で、もし動員を最優先にして考えるのであれば、
このようなプログラムは、普通、組まないだろう。
また、実際の演奏内容も、ブラームスを4曲でひとまとまりのように弾いたり、
ショパンを12曲一単位で、前後の曲のつながりまで演出して見せたりして、
細部までコブリンのセンスによって貫かれた構成になっていた。
聴き手がついて来られるか・呆れて顎を出すか、等のリスクに頓着しないのか、
あるいはそこに敢えて挑戦するのがコブリン流なのか(笑)。

コブリンは1980年生まれだから、今年でようやく31歳。
つまりポゴレリチ騒動のあった第10回ショパン・コンクールの年に誕生した人だ。
鬼才とかエキセントリックとかいう形容詞は、私には日々見慣れたものだが
その「元祖?」ポゴレリチが31歳だった頃に較べると、
現在のコブリンのほうが、明らかに「変わっている」と私は思った。
それも、リズムとかアーティキュレーションなど、
目で見て(耳で聞いて)すぐ指摘できる、具体的な箇所において、
はっきりと普通でないところが、コブリンには多々あった。
たとえばショパンのエチュード作品25-6など、デビュー当時のポゴレリチのほうが、
テンポの揺れもなくディナーミクの誇張もずっと少なく、「普通」の演奏だった。
そういうコブリンならではの箇所で、「変だから、心地よく聴けない」と思うか、
「こんな面白い音があったのか」と引きつけられるかで、彼への評価は変わると思う。

アンコールは、1曲目がドビュッシー『亜麻色の髪の乙女』だったので、
おっ!?20世紀に突入?と思ったのだが、2曲目がショパンの『前奏曲作品28-7』、
戻ったな、太田胃散か、アンコールはさすがにサービスしてポピュラー曲か、
とこちらも気楽になりかけたところで、3曲目にしてシューマン『アラベスク』、
更に最後が同じくシューマン『幻想小曲集』から「なぜに」。
つい先日、ポゴレリチにいずれシューマンを弾いて欲しいと書いたばかりだが、
コブリンがこのタイミングで弾くとは考えていなかったので、嬉しい驚きだった。

総じて、私には大変楽しい演奏会だった。
そもそも私は聴き手として曲がっている(らしい・笑)ので、
ほかの人がしないようなことをして、しかも破綻していない、という演奏が好きだ。
昨夜のコブリンは、彼独自の世界と、YAMAHAのCFXの質の高さとが相まって、
私にとっては、「出会い」の演奏会として最良に近いかたちになったと思う。
こうなると、是非また次の演奏会も聴きたいものだ。
彼がこのまま行くのか、この先どのような方向性を探るようになるのか、
将来的なことにも、今、とても興味を感じている。
……が、こういう演奏家を継続的に広島などに呼んで貰えるものなのかどうか、
一般的に考えると、心配でもある(汗)。

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雨の夜、コブリンのピアノ・リサイタルに行ってきた。
会場は安芸区民文化センターホール。

個性的とかエキセントリックとか、評判は聞いていたのだが、
私の印象は「どの曲もタダでは終わらせない」。
今夜聴いた限りでは、どの様式の曲でも、コブリンが弾けば、
どこかで必ず何か面白い仕掛けをしてみせてくれて、
ほかでは聴けない「コブリン流」の仕上がりになっていることがよくわかった。

今は時間がないので、とり急ぎ。
また詳しいことは、明日にでも(多分)。


それにしても今夜は、大勢のピアノ関係の友人知人に出会った。
一方的にお名前だけ存じ上げている方々も含めると、
演奏家の方や、先生方や、生徒さんや、そのお母様方、調律師さん、等々、
広島のピアノ関係者のかなり多くの方々がいらしていたのではないか、
という気がした。
そのお蔭か別の理由かわからないが、
客席の反応は「万事心得た」感じで素晴らしかった。
聞き入る態度も、拍手のタイミングも。

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ミもフタもない話だが、この公演は私にはお話にならないほど値段が高かったため、
C席を取り損なった日に、すっぱりと諦め、行かないことに決定していたのだが、
なんと今週になって友人から「頼む!かわりに行って!」と連絡が来た。
彼女が行けなくなった理由は、「地元神社例大祭での、次女の巫女舞奉納」(爆)。

*************

プログラムは前半がリスト『ピアノ協奏曲第1番』、後半がブルックナーの4番。
ラン・ランの素晴らしさ・面白さは、一昨年の大阪でのリサイタルで満喫したので、
私は彼のピアニストとしての力量を否定するつもりなど、毛頭、ないのだが、
今回はあまりにも、私にとって巡り合わせが悪かった。
というのは、実は9月に京都で、田村響が同じ曲を弾いたのを聴いていて、
私はそこに、容易に感想を書けないほど多くのものを感じたのだ
(ゆえに、9月の『ドラキュラ』やイナズマや歌舞伎のことはいろいろ書いたが、
京都の田村響に関するところだけは、まだ書くことができていない)。

あれに較べると、きょうのラン・ランの演奏は私には、超一流の『BGM』だった。
素晴らしいクオリティの演奏で、このうえなく爽快に、気軽に聴き流せてしまった。
つまりそれは、どれほど見事でも、今私が待ち望んでいる種類の音楽ではなかった。
ラン・ランとは、今夜は別の曲で再会したかったと思わずにいられなかった。
言うまでもなく、ラン・ランは全く悪くない、
それどころか彼は相変わらず物凄かったのだ。
問題は演奏者ではなく、今の私が聴き手として駄目だということだ。
田村響と波長が合いすぎて、骨の髄に近いところまで毒されてしまったので(汗)。

今夜のラン・ランに関しては、むしろ、アンコールの
リスト『コンソレーション』のほうが、私にとってはずっと良かった。
今の私は、ひとつひとつの音を顕微鏡で見るようにして漏れなく聞きたいので、
こちらは、ラン・ランのテンポ感やフレージングが私の欲求に近く、
協奏曲のときとは比較にならないほど入り込むことができた。

指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、私にとって彼は未だに、
まず「ピアニスト」だという印象が抜けきらないのだが、
ブルックナーを聴いていて、やはりオーケストラは彼の巨大なピアノなのだろうな、
という気が、幾度か、した。そして、聴いている間に幾度か、
「こういうものを聴くと、私はベートーヴェンの田園を聴きたくなるな~」
と内心で思っていたのだが、終わってから解説を読んだら、
森の空気や、光が降り注ぐ瞬間や、そうした光景が魂の救済に繋がっていく、
……というような気配を感じたことは、間違ってはいなかったようだった。
エッシェンバッハとウィーン・フィルは偉大だ。
音だけで私のような人間にそれを想起させたのだから。

アンコールはシュトラウスの『美しく青きドナウ』。
ウィーン・フィルだからこそ、最後はウィンナ・ワルツで、
しかもこういう非常に良く知られた曲で演奏会の締めくくるというのは、
いかにもスマートなサービスだという感じがした。

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天気予報の通りにきょうは朝から雨になり、
午後には予報が言っていた以上に強い雨が降り続いて、
早くから夕方のように暗くなり、私は足が冷たくなった(笑)。
それで布団を敷いて、『ギャラリーフェイク』(細野不二彦)の続きを読みながら、
しばらく温もった(殴)。←どんだけ、ばーさんな暮らしなのか。

寝転んで、ついでにハイドンのピアノ・ソナタ35(旧48)番のCDを聴いた。
自分で弾いていて、第1楽章・第2楽章には違和感はないのだが、
どうしても第3楽章が曲としておかしい気がしてならず、
自分の持っている全音版と異なる内容の楽譜は存在しないのか、
プロの演奏家はどう弾いているのかと気になり、
持っているものを引っ張り出して聴いてみた。

私はこの3楽章の途中に、どうも、
「フレーズとしての主語と述語の数が合っていない」みたいな、
落ち着きの悪いものを感じると同時に、真ん中のトリオ風の箇所が、
ここだけ三声だし雰囲気も前後と釣り合っていない感じで
(トリオなら曲想が変わるのは普通にあることだ、とはわかるのだが)、
極端な話、「ほんまにハイドンが書いたんか、ここ?誰かの加筆ちゃう?」
と思ってしまうくらいなのだ(殴)。

仮装ぴあにすと様にお尋ねしたところ、
今、楽器店等で見ることの出来るほかの版の楽譜も、
全音版とはっきり異なる内容のものは見当たらないようだった。
ただ原典版には、ディナーミクの指示などはほぼ何も書き込まれておらず、
私が問題にしている箇所のひとつに関しても、スラーが一切かかっていない、
とのことだったので、やはり弾きようによる、ということなのかもしれない。
とにかく私がこの3楽章をちゃんと読めていないことは間違いない。
どこがどこに繋がって、どこで切れている、というようなことが掴めれば、
もしかしたら今の気色悪さが一掃できるのかもしれない。
ちょうど、数学の幾何の問題で、補助線が一本、適格な位置に引けさえすれば、
そこから解法の手がかりが得られる、みたいに。そんなことが起こらんかな(殴)。

きょうCDで聴いた範囲でも、当たり前だが私が弾くほどの違和感はなく、
音符の配列は同じであってもフレージングには各の弾き手の工夫があり、
全体としては、随分と自然に流れて聞こえるような感じがした。

ハイドンを弾いていて、真作か贋作かと気にするなんて、
私はいよいよ『ギャラリーフェイク』の読み過ぎが……。

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昨日は14時から、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーを大阪で聴いた。
曲目はベートーヴェンの、いわゆる「4大ソナタ」で、
『月光』『ワルトシュタイン』『悲愴』『熱情』。

ゲルバーは1941年生まれだから、今年で70歳。
彼は私が子供の頃から日本でも大変に有名な人で、初来日は1968年だった。
私は彼の演奏をFMで聴いたり、レコードを買ったりして徐々にファンになり、
90年代からようやくリサイタルを実際に聴くようになったが、
まさか50近くなった自分が、70になったゲルバーを聴く日が来ようとは、
私は若い頃には想像したこともなかった。
いやはや、年月の流れというのは誰にもどうしようもないほど大変なものだ。
もうお互い(って私的には一方通行の「愛」だが)いつが最後になるかわからないから、
これからは、ますます一期一会を大切にしたいものだと昨日は思った。

とはいえ、ゲルバーは少しも年老いてなどいなかった。
身体的には、もともと不自由だった足が、更に年齢とともに歩行困難となり、
ステージへも、日本人スタッフの肩を借り、ゆっくりと歩いての登場で、
着席する動作ひとつでさえ、なかなか難しい様子ではあった。
しかし一旦演奏が始まると、彼の表現は前にも増して艶があり、
響きにも豊かなボリュームあって、素晴らしかった。
何より、音楽にポジティブな輝きが溢れていることには恐れ入った。
もはや、ゆったりと構えているだけで、ゲルバーは自在に、いくらでも、
楽器からも作品からも新しい力を引き出すことができるようだった。

私はゲルバーを聴くときには、彼が何を思ってプログラムを組んだかとか、
以前の解釈と較べて今回はどうだとかいうことが、念頭にないわけではないが、
実際の演奏会で彼の音楽が始まると、思考の中にある言語はどこかに行ってしまい、
ひたすら、彼の熱くて豪華な音の世界に包まれるのみになってしまう。
最初から最後まで、ずっと何も考えない状態で演奏会を聴かせてくれる芸術家など、
私にとっては彼のほかにはそれほど居るものではないと思う。
昨日はアンコールは無かったが、客席の皆が十分満足したことは明らかであったし、
私も、まるで起承転結のように四曲を堪能させて貰い、完結したという手応えがあった。
ゲルバーも幸福そうに微笑んで、幾度も客席に謝意を表し、
最後に登場したときには投げキスまで送ってくれた。

たったひとつ、昨日惜しいと思ったのは、演奏に関してではなくて、
曲が終わったか終わらないかくらいの瞬間に、客席のあちこちから、
爆発的な「ブラボー!!」と拍手が起こったことだった。
それはそれで、聞き手としての素直な感激の表明なのだろうし、
気持ちを抑えきれずに、そのタイミングで反応してしまう人がいることは
十分に理解できるのだが、それでも私自身は、
一切が途切れる瞬間を味わい尽くしてから拍手を贈りたかった、というのが本音だ。
どれほど華々しく弾ききったとしても、やはり音が途絶えたあとに、
一瞬、何かもうひとつ、ゲルバーの「音楽」があった筈だと私は思っているのだ。
昨日は、そこを聴くことだけは、かなわなかった。

************

ポゴレリチが縁でお友達になった関西在住某氏から、休憩時間に、
『いらしてますか?きょうは、サイン会には行かれますか?』
とメールが入り、某氏がここに来られているのがわかって嬉しく思い、
それと同時に、私はゲルバーがサインをしてくれることを遅ればせながら知った。
CDを買うと売り場でその案内をしていたのだが、
今、日本で手に入るゲルバーのCDは全部持っている私は、
最初、売り場を覗いてみることさえしていなかったのだ。

この際ダブろうと構うものか、私が1枚でも買えばそれが貢献になる、
と宝塚のFC活動みたいなことを考えて(笑)、
私はベートーヴェンのソナタ第1番・第6番・第7番が収録されているCDを1枚買った。
そして終演後、首尾良く楽屋口に並んで、サインをして貰った。
ゲルバーは、足が悪いためもあってか、自動車の助手席に座り、
ドアを開けた状態で、車内からサインや握手に応じている状態だったが、
その華やかな雰囲気や表情豊かな笑顔は、まさにゲルバーその人だった。
スペイン語で何か言おうと並んでいる間に考えたが、
スターオーラ全開のご本人を目の前にするとすべて吹っ飛んでしまい、
蚊の鳴くような声でお礼を(英語で・殴)言うのが精一杯だった。
ったく、なんのために『まいにちスペイン語』をシコシコやってたんだよっ。

同じ列の少し後方にいらした某氏とも無事にお目にかかることができた。
いつも某氏はこちらの状況を思いやって下さる方で、
昨日も短い時間を使ってお会いできるように気遣って下さって本当に有り難かった。
改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました~~<(_ _)>。

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オール・ベートーヴェン・プログラム。
詳細は後ほど

やはりゲルバーのベートーヴェンは最高だ(涙)。


追記:サインまでして貰った……!

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夏前から始めたハイドンのソナタ48番、譜読みだけは3楽章までやったのだが、
こういう軽やかな曲になると、うちの小さいアプライトの反応の悪さが
私の技術のなさに追い打ちをかけてくれるので、困る(--#)。
こんな腕前ではグランドピアノを弾く資格なんてないだろう、と思う一方、
弘法筆を選ばずの逆で、私はヘタだからこそ楽器が良くないと話にならない、
と痛感することも多い。

特に、私のテクニックでは1楽章の六連符の装飾音がタイトに入らないので、
意地になって集中的に練習していたら、とうとう先日、右腕に神経痛が起きた。
若い頃はこんなことはなかったのだが、まったく年は取りたくないものだ。
しかしこうやって、弾き方の悪いところを体が教えてくれるのだと思って感謝しよう。
どこかが痛くなるというのは(前述の楽器の鈍さの話はさておいて)
何はともあれ、脱力が出来ていなくて無理な力が入っている証拠だから、
この機会に反省し、痛くならない弾き方を見つけるべきなのだ。

Katsaris plays Haydn Sonata No. 48 in C major, Hob. 16/35(YouTube)

シプリアン・カツァリスの1970年チャイコフスキー・コンクールでの演奏だが、
自分でも同曲を弾くようになってみると、細かいところまでよくわかり、
やはりさすがに卓越したセンスを持つ弾き手にかかると、
こういう小さなソナタでも、ニュアンスの光る、粋な一曲になるのだなと思う。

私の持っている楽譜では2楽章は前半後半でそれぞれ繰り返しの指定があり、
つまり一回目と二回目では変化をつけて、全体を大きな変奏曲のように弾け、
という意味合いだと思うのだが、カツァリスはそれぞれ一度しか弾いていない。
コンクールという制約のためだったのか、これが彼の考え方なのかは不明だが、
少なくとも私の力量では冗長になるだけだし、
こういう緩やかな楽章は総じて、繰り返しの無いほうが心地よく聴けるように思う。

3楽章はこれまで、なんとなく愛らしい曲、という印象しか持っていなかったのだが、
楽譜を見てみると、凄くヘンな曲だというのが、初めてわかった(爆)。
冒頭が終わっただけでいきなり転調するし、三連符が右手左手と移り変わり、
不意に最初の音型に戻り、変奏を展開する気配を見せるのに、またすぐまとまり、
……ことごとく、読み手としてのこちらの心づもりを裏切るような構成になっていて、
何がしたいのか、私のような凡人には、どうもよくわからない(汗)。

しかし多分、その予想外の面白さが、ハイドンらしいところでもあるのだ。
フー・ツォンの2009年来日時のプログラムを読んでみると、
『ハイドンは凄い作曲家だ。
老年になっても、いたずらっ子のように明るく無邪気な童心を持ち続け、
知性とユーモアにあふれた音楽を書いている。
機知に富んだ和声の響き、緩徐楽章の美しさは、聴く人の心をとらえて離さない』
という彼の言葉が掲載されている。
そしてカツァリスの演奏を聴いてみると、なるほど、こういう正体不明の楽章を、
まとまった「愛らしい曲」として聴かせるのが本物なのだなぁ、とつくづく思う。

折しも、近々、カツァリスの松江公演がある。
2011年10月16日(日) 15:00開演
第26回記念松江プラバ音楽祭シプリアン・カツァリス ピアノ・リサイタル

私が今、家庭も家族も何も顧みなくて良い境遇なら、
懐かしい松江に、泊まりがけで出かけることにしていただろうと思う。
プラバホールは思い出多い会場だが、今年が開館25周年ということは、
私が松江に住んでいた頃はまだ、ここが出来て10年に満たない時期だったのだ。
一番忘れられないのは95年夏のクリスチャン・ツィメルマンのリサイタルだ。
出産や育児のために、生のピアノを聴くこと自体が久しぶりだったところに、
ツィメルマンをまともに食らってしまい(笑)、効き過ぎて昇天しそうだった。
あの規模の空間で聴くカツァリスは、素晴らしいだろうなと思う。
ああ、聴きたい。

しかし、広島からだと、松江は中途半端に近くて遠いのが問題なのだ。
島根は隣の県なのだが、山陰側に直接行く鉄道は広島側からは無く、
最も普通の交通手段は、片道3時間半かかる高速バスだ。
広島を出て三次までは中国自動車道を通るので快適なのだが、
後半が延々と中国山地沿いの山道をくねくねと行かねばならず、大変だ。
十数年前は、途中の赤名峠で半時間ほど休憩を取る日程になっていたものだが、
今でもそうなのだろうか。
途中の、牛乳で有名な木次とか、漬け物が美味しい頓原とか、……懐かしいな。

しかし、いくら昼の公演といえど、あのバスを一日二回乗って日帰りする、
という元気は私には無い。18年前でも、既に無かった。
ほかに岡山経由で伯備線2時間半、というコースもあるが、
あの列車も酔うほど揺れるので、やはり一日で二度は乗りたくない(汗)。
もうひとつの手段は、浜田までバスで2時間、残りの浜田-松江をJR山陰線で、
という方法か……。うぅむ。
カツァリスを堪能し、松江市内で泊まって、「みな美の鯛めし」を食べて翌日帰る、
というのが理想なのだが、……そんなこと誰が許してくれますか。

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第15回京都の秋 音楽祭 開会記念コンサートで
田村響が弾くというので、昼の公演だしチャンス♪と思い、来た。

この会場には初めて来たが、建物の玄関からホールまで、
螺旋状のゆったりしたスロープを上がっていくようになっていて
ニューヨークのグッゲンハイム美術館に似ていると思った。

きょうの演奏曲目は、前半が田村響の弾くリストのピアノ協奏曲、
後半がチャイコフスキー「くるみ割り人形」第二幕全曲。
オケは京都市交響楽団、指揮は広上淳一。


これが終わったらイナズマ@滋賀県草津に直行(笑)。

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私はクラシックファンの風上にも置けない人間で、
基本的に一番大事なのがピアノで、オペラは全然わかっていない。
だから夏前のメトロポリタン・オペラ来日の時だって、
その意義は重々認めつつも、自分の眼中にはなかった。
しかしそのような私でさえ、今回のボローニャ歌劇場にはビックリした。
三人いた主役テノールが、全員次々とキャンセルになったからだ。

まず8月23日だったと思うのだが、ヨナス・カウフマンが来日をキャンセルした。
胸部のリンパ節の切除手術を受けなくてはならなくなったから、
と本人のメッセージが発表された。
どんだけ緊急手術なんだ、と私は一度は真面目に驚いてあげたのだが、
彼はそもそも6月のメトロポリタン・オペラ来日公演の際にも、
「原発事故が怖い」という理由で日本に来なかったので、
どうも、未だにそちらのほうが「治癒」していない可能性も高いようだった。
ともあれ、彼の代役としてドン・ホセはマルセロ・アルバレスであると同時に公表された。

次に、8月27日に、なんとサルヴァトーレ・リチートラが交通事故に遭った。
運転中に脳出血発作を起こしたとみられる、あまりに不幸な出来事で、
リチートラは重篤な状態に陥ったため、当然のことながら来日どころではなくなった。
そして皆が彼の回復を祈ったが、彼の意識は戻ることなく9月6日に亡くなった。

更に、これとほぼ時期を同じくして5日に、もう一人のテノール、
フアン・ディエゴ・フローレスまでもが来日キャンセルを発表した。
「海水を飲んで咳が止まらず、咽喉を痛めたので」。
このヒトは以前にも、魚の骨を咽喉に引っかけたと言って出演を取りやめた、
という実績があるので、歌手なのに咽喉に特別に悪い星でもついているのだろうか。
なんともお気の毒なことだった。
……私も今度から、扁桃炎じゃなくて「海水飲んだ」にしようかなぁ。

そんなことより。
実は、もっとずっと、比較にならないほどお気の毒なのは日本のファンのほうだった。
理由が何であれ、来られなくなった人間のことは、もう仕方が無いし、
そもそも、来たくないと言う人を拝んでまで来て頂く必要など全くないことだ。
問題はそっちではない。
待ち焦がれた歌声を聴くことができなくなり、大いに失望させられたにとどまらず、
『公演中止以外はいかなる理由によってもチケット代の払い戻しは無い』、これが困るのだ。
主力メンバーをことごとく欠いた、無人芝居のような舞台になろうとも値段は同じだ。
そしてフザケたことに、オペラは半端なく高いのだ、とっくにバブルがはじけた今になっても!
聞いて驚け、今回など、たった一公演がS席54000円だ(『カルメン』だけ52000円)!


もうこうなったら、出演する歌手のネーム・バリューとは関係なく、
その出来映え・公演の見事さが、チケット代と皆の期待とに、見合うものであって貰いたい、
と切に願うのみだ。
週末に行われたびわ湖公演の情報では、『清教徒』代役のセルソ・アルベロは、
第三幕で、輝かしいハイFを、しかも頭声で聴かせたというではないか!
キャスト変更になったからこそ、この舞台に巡り会うことができた、
という公演になってほしいと、遠方の外野からだが私は、本当に心から祈っている。

本日、9月13日18時半、東京公演いよいよ初日だ。
ボローニャ歌劇場 日本公演(フジテレビ)

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そして、今回もご降臨になりました、総統閣下。
総統閣下はボローニャ歌劇場に相当お怒りの様子です(YouTube)

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