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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



二日続いた雨がようやくあがったので、頼山陽史跡資料館に行った。
これまでにも興味深い展示は幾度かあったのだが、
コロナ禍と自分の仕事の状況との絡みでなかなか行けず、ほぼ1年ぶりだった。

行ってみると、先客も誰も居らず、静まりかえっていて、
「良い展示なのですが、お天気も悪く、なかなかおいで戴けなくて」
と職員さんも残念に思っていらっしゃる様子だった。

ちなみに頼山陽史跡資料館では旧暦で七夕をしていらっしゃるとのことで、
短冊を書かせて下さった。
この御時世なので、願うことは皆ひとつな訳だが……(^_^;。
本当に、早く落ち着いて、以前の日常を取り戻したいものだ。


今回は「頼山陽遺墨選」で、山陽の書が年代順に展示されていた。
何年ぶりかで、頼山陽の『泊天草洋』の直筆と再会したが、
山陽の書というのは、美的に隙が無いのは勿論、
折々の心持ちを、年代に応じて生き生きと変化する描線で表現してあって、
書であると同時に画的な要素も持っていると改めて思った。
誰しも一生を通じて字形がそれなりに変化して行くものだとは思うが、
山陽は、中年期から意識的に右肩上がりの書体を取り入れており、
能書家としての彼の審美眼の変遷も、とても面白く感じられた。

ときに私は以前から、山陽の長男の頼聿庵(いつあん)の書が好きなのだが
きょう貰ったチラシで、9月には聿庵の大字書の展示があると知り、
俄然、期待が高まった。
同じく9月の『連続講座』第二回は「頼聿庵の書(仮)」となっており、
こういう講義も聴きたいものだと思ったが、
さて、神社の祭と重ならないかどうかが(汗)。
『頼山陽文化講座』のほうも「漢詩入門」「頼山陽と唐詩」「頼山陽詩を読む(1)(2)」
と秋まで大変面白そうな……、と思ったがこちらはとっくに満席なのね(^_^;。

また、今回久々に頼山陽史跡資料館に行ってみると、
以前は無かったような来館者向けの資料集が新しく出ていて、
『幽居中の陳情(山陽脱藩始末)』の口語訳や、
山陽の父・頼春水による『縮景園記』など、
私にとってかなり興味深いものがあったので、有り難く頂いて来た。
今後の私の目標は、比治山の多聞院を訪ねて頼一家の墓参りをすることと、
『縮景園記』を熟読したうえで実際に縮景園に行って、
春水の解説に従って歩いてみること、のふたつだ。
福山に行って菅茶山の旧居を見学するとか、
尾道の平田玉蘊ゆかりの場所を歩くとか、
江馬細香の足跡を辿って岐阜の大垣を旅するとか、
いろいろと夢はあるのだが、何しろコロナ禍なので遠出が難しい。
当面は地元から攻めようかと。

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朝9時から胡町の歯医者さんへ行って、その帰りに、
曇りがちで暑くないのを幸いに、頼山陽史跡資料館まで出かけた。
その前に、近くの白神社に寄って、お参りもした。

2010年の夏に、漢詩の会で頼山陽の詩を読んだのが出会いで、
なんだかんだとあれから十年。
機会あるごとに、山陽そのほかの頼家の人々の漢詩を味わい、
山陽の長男・頼聿庵の書を見に行ったり、
母・頼静子の日記を読んだり、
頼家発祥の地を訪ねて竹原まで出かけたり
頼山陽の恋人だったという理由で平田玉蘊の展示を見に行ったり、
江馬細香の本を買ったりと、
私の頼山陽・趣味は時間をかけて広がり深まり、今日に至る。
今や私は、「頼家の系図」を眺めるだけで、どの人がどういう生涯を送ったか、
どのような作品を残したか、山陽との関わりはどうだったか等々を思い出せる。
気付いてみれば、頼家の人々は「知らない人たち」ではなくなっていたのだ。

というわけで、きょうは久しぶりに頼山陽史跡資料館を訪ね、
広島頼家 ことはじめ」ということで山陽の父・春水を中心とする展示を
時間をかけて一点一点、じっくりと楽しませて貰った。
朝早い上に天気がもうひとつということで、私以外に誰も来ていなかったから、
3密の心配など皆無で、展示室独り占め状態で心ゆくまで資料を眺め、
時間を気にせず解説をじっくりと読み、妄想にふけった。

書では私は聿庵の激しさに抜群に惹かれているのだが、
聿庵の祖父(山陽の父)春水は、広島頼家を興した人としてやはり偉大であり、
彼の志の高さ、教養の深さ、人間的な大きさや統率力ゆえに、
頼家は学者の一家に相応しい繁栄を実現させたのだなと、
その残された記録の緻密さや、能書家ぶりに、改めて感じ入った。
書簡や日記から読み取れる、春水の弟・春風の尽力や、
春水・静子夫婦と頼家親戚との信頼関係なども印象的で、
当時の人々は「家」を守り立てるために、
家長を中心に一致団結していたのだなということも、強く感じた。
一方、母・静子の父 飯岡義斎が孫の山陽に宛てた書簡は、幼い孫息子に、
「元気に、いい子にして過ごすように」と温かく言って聞かせる内容で、
外祖父という立場からの、大らかで情の篤い人柄が偲ばれ、胸が熱くなった。

何年か前、学芸員さんの直々の解説と案内で展示を見たときに、確か、
「頼家の建物の復元ができたらと思っている」というお話があった筈なのだが、
時間がかかってもそれは是非、いつの日か、実現させて戴きたいと思った。
実物大が難しければ、何分の一かの模型になっても良いから、
春水が倹約に努めながら、精魂込めて充実させて行った屋敷や祠堂の再現を
立体で実際に見てみたいと、今回の展示を見ながらいろいろと夢想してしまった。
この杉ノ木小路に拝領した屋敷は、春水の夢の結晶であったと思う。
山陽が脱藩事件のあと暮らした仁室だけは、史跡資料館の庭に復元があるが、
私は、杉ノ木屋敷全体がどうなっていたかを、可能な限り、この目で見たい。
私はそうでなくても、インテリアが好きだし(汗)。

頼山陽史跡資料館に行くと、いつも、
ああ本当に頼家の人々はここにいたのだな、と実感することができ、
彼らの行動や表情、暮らしぶりなどが様々に想像され、
親戚でもなんでもないのに(汗)、とても身近な人たちのように思われる。
漢詩が始まりだったのだが、ここまで繋がろうとは。
ちなみに私が長年、思い描きながらまだ果たせていないのが、
福山の神辺町に残る菅茶山(山陽の師)の旧宅を訪ねることと、
江馬細香の足跡を辿って岐阜の大垣を旅することである。
コロナの騒動が落ち着く日が来たら、是非に、と思っている。

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久しぶりに頼山陽史跡資料館に行った。
「頼山陽と酒」の企画展示があったからだ。

副題の「一杯一杯復一杯」は
李白の『山中與幽人對酌』だ。
頼山陽は、若い頃は下戸でろくに飲めなかったが、
どういうわけか四十代以降、どんどん酒好きになり、
「飲酒詩」といえる、酒をモチーフとした詩がいくつも作られている。
「伊丹の酒」に関する記述が頼山陽の資料の随所にあり、
特に剣菱に言及が多いので、彼のお気に入りであったと思われる。
今回の展示に関しても、説明会が催された日には、
酒造会社「剣菱」から振舞酒のあるイベントもあったそうだ。

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午後、福山から帰ってきたときにはまだ2時半だったので、
広島駅で花を買い、駅前からバスに乗って舅姑の墓参りに行き、
またバスで市街地まで戻ってきて、今度は頼山陽史跡資料館に行った。
私にまとまった自由時間があることは最近は稀なので、
もう行けるところはこの際、全部行っておこうと思ったのだ(汗)。
福山の平田玉蘊はきょうが最終日だったが、
こちらの田能村竹田だって、あと何日かで展示期間が終わりだった。
きょうを逃したら、私はもう見ることができないと思われた。

『風流才子』は晩唐の詩人・杜牧の人生を表現するのによく使われる言葉だが、
頼山陽と田能村竹田はいずれも、経世の論を説いた思想家でありつつ、
風雅な詩作・南宗画の世界に遊んだ文化人でもあったという点で、
杜牧の生き方に通じるものがあった、
――というのが今回の展示の切り口だった。
杜牧、……漢詩の会で随分習った覚えがあるのだが、
咄嗟に思い出せるのは『江南の春』くらいしかなかった(大汗)。
まだまだ勉強が足りません。

山陽と竹田が、才を認め合った友人同士だったことは
著名な評伝や随筆等でもよく取り上げられていることだが、
今回の展示で、両者の意気投合ぶりがいっそうよくわかった。
ふたりはともに旅をしたり、共作をしたり、
詩や画の作品を見せ合い、批評し合ったりして、
互いを尊重し影響を与え合う交際を、長年に渡って続けた。
山陽のもうひとりの親友・浦上春琴とも、皆で活発に交流し見聞を広めた。

また、橋本竹下や亀山夢研といった、パトロン的な文化人たちが
彼らと親交を結び、交遊を重ねる中で彼らを支援した様子についても、
私はこのたび、いくつかの書画を通じて、ほぼ初めて理解することができた。
例えば、竹田の筆による『尾道舟遊図』で舟に乗っている三人は、
竹田と竹下と夢研であろう、と解説に書かれていた。
これを見ているうちに、私は、もし、なれるものなら
夢研みたいな人間になりたいものだ、としみじみ思った。
自分自身にも多少の嗜(たしな)みや心得があったうえで、
表現者を目指すのではなく、むしろ後援者となって、
幾多の才能の交流の中心にあって彼らを眺めている、
というのが私の思い描く究極の理想だ(殴)。
私は道楽者の極みとして、自分の審美眼によって才能を見いだし、
それを愛でることに、すべてを費やしたい。
自分自身が作り手として称賛されるよりも、
才能と才能を引き合わせるコーディネーターとなることにこそ、
私は必ずや、大いなる喜びを見いだすだろう。

……しかし勿論それには、何より先立つものが必要だ。
まず舟遊びの舟を手配するのが、パトロンの役割だからして。

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前売りを買ってあったのに、ずっと忙しくて出かけられず、
最終日の今日になって、ようやく見に行くことができた。
平田玉蘊は、江馬細香とともに、頼山陽の恋人として有名だった女性だが、
彼女たち自身も、優れた作品を多数残した女流画人・文人であった。
今回は特に平田玉蘊の作品を集めた展示だったのだが、
画賛や書簡などには、頼山陽のみならず、頼春水・春風・杏坪や菅茶山、
上田琴風や田能村竹田など、馴染みの名前が次々と登場し、
当時のこうした文化人たちとの交流が読み取れ、大変興味深かった。

平田玉蘊の作品は花鳥画が定番ということになっているのだが、
きょうの展示を見て私は、彼女の描く人物画に非常に心惹かれたし、
点数は少ないものの、犬や虎などの動物をテーマにした作品にも、
惹きつけられるものがいくつかあった。
私が思っていたよりもずっと、平田玉蘊の筆致には写実的な面があり、
その作品世界はバラエティに富んでいた。
彼女が様々なテクニックを開拓し続けたこともよくわかったし、
多くの作品において、人物や動物の表情は生き生きと鮮やかで、
中にはユーモラスな空気さえ、感じられるものがあった。
特に私が気に入ったのは、『鹿に月図』の鹿の横顔や、
『若衆に犬図』の犬の表情、
『寿老人図』の、鹿と仲良くしている(笑)寿老人の様子、などだった。

頼山陽と平田玉蘊は一時期、公認の恋人同士であったが、
結局、結ばれることはなかった。
求婚したものの、その後出奔して独り京にのぼった頼山陽は、
生活の目処が立たなくなり、結婚の話は時期を逸したまま終わった、
というように言われているが、詳細はよくわからない。
しかし頼山陽の周囲の人々――頼家の両親や叔父たち、
また神辺での親代わりであった菅茶山など――が、
山陽と別れたあとの玉蘊をも、変わりなく支え続けたことが、
今回の展示からよくわかり、改めて心打たれるものがあった。
女性である玉蘊が傷ついたことに対して、
頼家の人々は申し訳なく思ったに違いないが、
彼らは、一時の罪滅ぼしのために玉蘊の作品を買ったのではなかった。
皆が、何よりも彼女の画才を高く評価していたからこそ、
その交流は終生、損なわれることがなく、
誰もが彼女の絵を求め、画賛を書き、ときに共作をして、
彼女を守り立てようとしたのだと思う。

『批正を乞いたいが、女の身では自由に出かけることも叶わない』
という意味のことを書いた、玉蘊の書簡が展示されていたが、
そのような時代にあって、絵筆ひとつで名をなし、生計を立てた彼女は、
今の私たちが想像する以上に、強く自立した女性だったのだと思った。

***********

ふくやま草戸千軒ミュージアムには初めて行ったのだが、
大変わかりやすく魅力ある展示がなされていたと思う。
特に、画賛や書簡、日記など文章の展示物については、
現代日本語での要約が適切な分量でつけられていたことが良かった。
展示の解説を見ることは読書とは違うので、
あまり細かい文章が添えられていても、その場で読み切るのは難しいし、
かと言って、背景に不明な点が多くては作品の意味もわかりづらい。
その点で、今回の玉蘊展は過不足がなく、実に良い内容だったと思った。

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頼山陽史跡資料館が今月から広島県の直営になり、
県立歴史博物館の分館という扱いになった。
そのリニューアルオープンがつい先日の5月1日で、
きょうは午後から、学芸員の方による展示解説会があったので行ってみたら、
これまでと較べて、展示室の構成や展示のコンセプトが若干新しくなっており、
展示室1が「頼山陽のふるさと「広島」と頼家の暮らし」、
展示室2が常設展「頼山陽の生涯」とスポット展「頼春風」、
となっていることがわかった。
展示室2は7月5日までこの構成で、7・8月は特別展に変わるそうだ。
ちなみに入場券のデザインもリニューアルされ、耶馬溪図がお目見えしていた。

私の頼山陽趣味も結構これで長くなってきたので、
概論的な解説のほとんどは既に知っている話題だったが、
やはり専門の学芸員の方から要点をまとめて聞かせて頂くのは
大変わかりやすくて勉強になったし、いくつかの新しい発見もあった。
私が最も心躍る思いになったのは、頼家の間取りや屋根の図面から、
当時の頼家各室の復元が可能であると思われる、
という話を聞いたときだった。
春水(山陽の父)の書斎・嶺松盧やその庭、家祭が営まれた詞堂などを
空間として感じることができたら、どんなに素晴らしいだろう、
と、私の夢が広がった。
完全再現が無理なら、ドールハウス的な小さい模型でも良いから、
頼家の三次元復元を見てみたいものだ。

スポット展で取り上げられている頼春風は山陽の叔父で、
山陽の父・春水のすぐ下の弟にあたる人だが、
私は竹原の春風館も見に行ったりしたので、
(会ったこともないのに・爆)結構この方とはお馴染みという気分だった(笑)。
私にとって春風の書は、山陽や、ましてや聿庵(山陽長男)のように
強烈な魅力を放つものには見えなかったが、きょう改めて眺めて、
そのまろやかで懐の深い、温かい書体に感じ入った。
とりわけ、春水・春風・杏坪の三兄弟による合筆には驚嘆した。
頼家の人々が能書家揃いなのは以前から知っていたが、それにしても、
青少年時代の三兄弟の書は、あまりにも、あまりにも見事だった。
やはり、栴檀は双葉より芳し、蛇は寸にしてその気を表す(汗)。

五年前、漢詩の会頼山陽の詩を続けて読んだのがきっかけで、
以来、私はこうして、ずっと頼一族に関心を持ち続けているのだが、
最近ではもう、誰かの名前が出るだけで、
その人の生涯やいくつかの逸話がすぐ思い浮かぶようになり、
ろくに顔も知らないのに、何か親戚みたいな(汗)感覚になって来た。
これからも見逃せない、頼山陽史跡資料館、……と思った(笑)。

***************

きょうはそのほか、家では、日頃はできないプリンターの手入れをした。
ノズルのチェックをすると、イエローとライトマゼンタが擦れていたので、
幾度かクリーニングとテストを繰り返し、やっと調子が良くなった。
そのあと、夕方から主人と一緒にソフ○ップ広島に出向き、
以前使っていたパソコン3台を持ち込んで、処理と引き取りを依頼した。
既に、電話で問い合わせて説明を受けていた通り、
ハードディスクの破壊+本体のゼロ円買取(1台あたり約1500円)、
というかたちでスムーズに処分して貰うことができた。
長い間、懸案になっていたことだったので、解決できて良かった。

出てきたついでに回転寿司で食事を済ませ、これで夕食も終わったので
私にとっては本日は、何もかも順調で素晴らしい休日だった。
ああ、本当に休みの日はものごとが捗(はかど)る(感涙)!
天気も良く、カープも快勝して、市街地は夕暮れになっても活気があり、
私たちが入った回転寿司のお店でも「カープ四貫盛り」なるセットが
景気よく次々とオーダーされていた。

【広島】マエケン画伯「こいのぼり」に新井がツッコミ「サメにしか見えない」(スポーツ報知)
『◆広島13-1巨人(5日・マツダスタジアム)
広島の前田健太投手(27)が7回4安打無失点の好投で3勝目(2敗)を挙げた。お立ち台では、恒例となったイラスト入りTシャツを着て登場。こどもの日にちなんで「こいのぼり」を書いたが、先制打を放った新井貴浩内野手(38)から「サメに見える」とツッコミを受けた。』

↑私は、イルカかと思いましたね(逃)。

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頼山陽 史跡資料館の平成26年度企画展『文人たちの手紙』を見てきた。
私自身は自力で古文書を読むことはほとんどできないのだが、
ここ数年来の頼山陽趣味で、頼家の背景知識が少しは頭に入っていたことと、
展示に詳細な解説がついており理解を助けてくれたこととで、
彼らの書簡の面白さを、自分なりに十分に味わうことができたと思っている。

山陽本人だけでなく、父・春水、叔父の春風・杏坪、息子の聿庵、
母の静子(号は「梅(ばい)し(=<風思>」)、妻の梨影に至るまで、
頼家の人々はそれぞれ達筆で、かつ、なかなかに筆まめだった。
能書家揃いの彼らの手紙は、まずその書体や書きぶりそのものが見事であり、
更に、添えられた和歌や漢詩等も含めて、
作品的な完成度の高いものも少なくなかった。
その反面で、親しい間柄ではいかにも口語的な言葉使いの手紙もあり、
彼らの日常的な言い回しや口調について様々に想像させられ、面白かった。
また、一時期は山陽の保護者でもあった儒学者・漢詩人の菅茶山が、
頼家の面々と活発な手紙のやりとりを終生続けたので、
彼らの残した書簡は、時系列に沿った記録としての価値が高く、
今や、当時を忍ぶ第一級の史料となっていることも興味深く思った。

昔から著名人の書簡を木版印刷で出版する企画はあったし、
頼家の男性たちは、学者や書家として存命中にそれなりの名声を得ていたから、
将来の公開の可能性を全く考慮しなかったわけではなかったかもしれないが、
それにしても、こうした手紙がまさか数百年を経てなお現物のままに保存され、
私のような頼家と何の関係もない一般人の女(笑)の
鑑賞の対象になると想像することまでは、おそらくできなかっただろう。
ましてや、山陽の妻であった淳や梨影らは、歴史上もほぼ無名の存在であり、
自身の一筆が後世の人間の目に留まることがあろうなどとは、
全く考えられもしないことだっただろうと思う。
私としては、ここに至るまでの多くの歴代関係者の尽力や、
幾重にも重なった幸運に、感謝せずにはいられなかった。

ときに今回の展示では、文化7年9月の、菅茶山と頼春水の書状に関して、
どうも解説文が本体とは逆につけられているのではないか
と私は見ていて気になった。
内容の書き起こし部分は合っていたと思うのだが、
表題と紹介文を載せたプレートが、多分、反対になっていた。…と思う。
私が何か勘違いしているのだろうか(汗)。
自信がなく、申し出ることは躊躇してしまったのだが、
やはり、言ってみるべきだっただろうか(大汗)。

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明朝是歳除
会社に出なくて良い日だったので、朝から漢詩の会に行った。
今の時期、旧暦では12月ということで、師走の詩を三題読んだ。
唐の岑参(しんじん)が、勤務で今の新疆ウイグル自治区まで赴き、
『ったく、長安から何万里離れとんのか、
李(=友人)のヤツ手紙の一本も寄越さんたぁどういうことや、
見りゃ、目の前、延々と砂漠しかねーよっ(--#)、
しかも、チクショー、明日は大晦日かよっ』
と憤懣やるかたない『玉関寄長安李主簿』がなかなか面白かった。
いや勿論、幕僚として西の地で過酷な生活を強いられた岑参のことを思えば、
これは笑い話などではなく、あまりにも切実な、
まさに悲憤慷慨の詩なのだけれども(^_^;、
しかし怒り方がやはり若いというか、力強さを感じて私は気に入った。
この岑参という人は、戦地であった西方勤務が大変に長く、
その時期の作品も多いので、『辺塞詩人』と呼ばれているそうだ。

墓参偶成
ということで、あとは家に帰って掃除して晩ご飯を仕込んで、
ちょっと休もう、…と思っていたのだが、
バスを待つ間、携帯でニュースの見出しをチェックしていたら、
そのヨコに出ていた天気予報に明日は雨だと書いてあり、焦った(O_O)。
私はこのところずっと、舅姑の墓へ参っていないのを気に病んでおり、
今週のスケジュールで唯一自由になる明日朝をアテにしていたのだが、
それが雨で駄目になりそうなら、残るは今日、今から行くしかなかった。
なので、そのまま一旦帰宅して荷物を置いてから、
改めて佐伯区方面に向かって出発した。
行ってみたら、墓地に人影は全く無く、車の一台すら停まっていなかった。
普段、午後になってから墓地には行かないようにしているのだが
(算命学をやっている友人が、以前、
『お墓行くなら朝。太陽が真上を過ぎたあとの時間は、魑魅魍魎が出て来る』
と言ったので、なんだかキショク悪くて、日頃はそれを守っているのだ)、
でももう、きょうの場合は背に腹は替えられないし、仕方が無かった。
舅姑の墓へ行って掃除をして、花を取り替えて新しい菊を生けて、
お灯明をつけお線香を上げて拝んでいたら、
私の左側の、お寺の本堂の屋根あたりで、パンパン!と不思議な音がした。
うそ、これって、いわゆるラップ音…(^_^;?
と思ったが、聞かなかったことにした(逃)。

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(写真は、頼山陽史跡資料館の門を入ったところにあるモニュメント。
昭和10(1953)年からあった山陽記念館は原爆で大破し、戦後に修復されたが、
平成7(1995)年に現在の史跡資料館へと全面的な建て替えが行われた際に、
当時のバルコニーの一部が切り取られ、このモニュメントとして残された。)

頼山陽史跡資料館の平成25年度企画展『菅茶山と頼山陽』を見てきた。
平日午後のせいか、初めは私以外に誰も展示室内にいなくて、
貸し切り状態で、資料や説明文を存分に熟読させて貰った。

漢詩を読む者にとっては、菅茶山・頼山陽はともに大変重要だ。
いずれも江戸時代後期の漢詩人として優れた詩を多数残しており、
鑑賞や詩吟の場で触れる機会も多い。
きょうの展示でも、過去に漢詩の会で読んだ詩の直筆を見ることができ、
私にとっては、これまで以上に、そうした詩の詠まれた時代や背景を
現実のものとして手応えを持って感じることができた。
とりわけ、山陽の代表作のひとつである『泊天草洋』の書を
実際に軸装で見ることができたのには感激した。
解説によると個人所蔵の品であるらしい。
まことに得難い機会だった。

山陽が茶山の依頼を受けて書いた正慶尼の伝記というものは
私は全く知らなかったので、その書とともに、
彼女の存在や逸話そのものにも大いに興味を持った。
彼女は名を『阿雪』といい、江戸中期に名を成した画家であったが、
娘時代から武芸を好み、奇行でも有名であったということで、
『奴の小万』の異名を持つ、いわゆる女伊達であった。
『正慶尼』とは、隠居後に仏門に入った彼女の名前だ。
彼女の真実の姿を伝えるべく、山陽は茶山の依頼で伝記を書いたそうで、
今回はその一部が山陽の書として展示されていた。

山陽の恋人であった平田玉蘊や江馬細香もある意味で同じだが、
『三従』などという考え方が生きていた時代においても、
印象的かつ個性的な女性たちが活躍した場は確かにあったわけで、
私は彼女たちの存在それ自体に、改めて感じ入った。
勿論、その人生は、現代の私達が想像する以上に、
人々の好奇の目にさらされた過酷なものであっただろうけれども、
彼女たちの生き様は、やはり抜きん出て精力的であり活動的であり、
それゆえにこそ、茶山や山陽のように、
こうした女性たちのことを記録しようとした人々もあったのだ。

しかしきょうの展示で私が何より感銘を受けたのは
茶山の弟の菅恥庵の墓碑銘としての山陽の書(の拓本)だった。
山陽は『備後菅圭二墓』の文字とともに、
自ら撰んだ墓碑銘を書いているのだが、
それがあまりにも見事な楷書だったので、私は目を見張った。
頼山陽の楷書などというものを、私は完全に初めて見たと思った。
恥庵は茶山より20歳も若い弟で、京都で私塾を開いたが、
すぐに病臥し、手当の甲斐なく、三十代初めに亡くなっている。
この墓は現在も京都の某地にそのまま残されているそうなので、
叶うことなら私はいつか実物をこの目で見たいものだと思った。
チラシにも図録にも、この恥庵の墓碑銘については取り上げられておらず、
特別に話題性のある展示ではなかったのかもしれないが(拓本ではあるし)、
しかし私にはこの山陽の字が最も強烈に印象に残った。
一級の美術作品と言える、見事な、風格のある楷書だと思った。

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頼山陽史跡資料館の特集展『頼山陽と幕末の群像』を観てきた。
頼山陽とその子息・弟子たちと、
近藤勇・伊藤博文ら幕末の志士たちの書が展示されており、
中でも複製でない吉田松陰絶筆が出展されるのは8月2日まで、
ということだったので、行けるうちにと思って行って来た。

頼山陽本人の書は、これまでも見たことのあるもので、
揮毫されている詩文も漢詩の会で習ったものだったが、
中年期の作については、右肩上がりの動きのある書体で、
いかにも頼山陽という趣のものだった。
書の手本として書かれた(だろう、私には詳細不明)『暢寄帖』は、
作品としての書とはまた違い、筆運びの妙技を顕示するような、
指導者・山陽の大きさ・自在さが圧巻だった。
そしてやはり今回も、山陽の長男・聿庵の書が、
山陽とはまた違う空間構成のセンスを感じさせるもので、
今の私にとっては、最も印象の鮮やかなものと思われた。

吉田松陰は、中国地方の者には何かと近しい存在だ。
山口県萩市の松下村塾が、修学旅行コースになることも多い。
しかし考えてみると、私は松陰直筆の書を積極的に見たことは、
これまで無かったかもしれない。
松陰が自身の肖像のための賛として書いたという作品よりも、
やはり、刑場に向かう直前に懐紙にしたためた『松陰絶筆』に
その未完成な部分も含めて生々しさがあった。

伊藤博文もまた漢詩をやる者にはお馴染みだ。
この人の詩はいろいろと残されており、
自身の揮毫した作品も、私が想像していた以上に数多いことがわかった。
豪快な西郷隆盛の書や、端正な岩倉具視の短冊もあり、
歴史の表舞台に登場する人達の、書家としての一面が私には新鮮だった。
近藤勇の書は山陽によく似た右肩上がりの書体なのだが、
解説を見るとやはり、山陽の書を手本として稽古に励んだと伝えられる、
と書かれていた。
一方、広島藩最後の藩主であった浅野長勲は頼聿庵の弟子で、
聿庵が手ずから植えた梅の木に、亡き聿庵を忍ぶ、
という主旨の『詠頼聿庵先生遺愛梅』を遺していた。

8月3日からの後期展示には、今回とは違う吉田松陰の作品が、
複数出展されるということなので、またそちらも観たいと思った。
書には、その人の本質の一端が明らかに現れていて、
私の様に格別の素養などない者が見ても興味深かった。
『幕末の志士たち』ではあるが、歴史上の存在意義や業績を一旦忘れて、
書から感じられる人物像をもとに、自由にイメージを広げてみるのも
なかなか楽しいことだと思った。

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