ノゾミが社用車を使い始めたことにより、彼女に対する夫の熱量は見て取れた。
かなりの低体温。
のぼせていれば、あの車に乗るのは絶対に止める。
ダイちゃんにはノゾミに社用車を使わせる権限があろうが
社内のことなので、夫にもそれを止める権限ぐらいはある。
時速70キロの普通車がノーブレーキで右運転席に突っ込み
その衝撃で段差のある歩道へ飛ばされた軽自動車のダメージは大きい。
メチャクチャになった現物を見れば、そして車に関する仕事をしていれば
どんなに修理をしたって元通りにならないのはわかる。
修理には1ヶ月かかり、直って来たらドアが開かなかったため
車を届けに来た修理工場の人は外へ出られず
そのまま修理工場へ逆戻りした。
さらに何週間か経って車は戻って来たが
それ以来、誰もが遠巻きにして、乗ることはなかった。
そんな恐怖の車をノゾミに使わせて平気とは、ひどいではないか。
まあ、自分は人と違って特別だと思い込んでいるのが
不倫者というものよ。
一方、特別という見地では、この車の特別ぶりも負けてはいまいから
特別なノゾミにふさわしい、“スペシャル・カー”ということにしておこう。
もっとも夫が完全にぞっこんなら
ノゾミが昼食を摂りに自宅へ帰ることは無いので
スペシャル・カーを使うことも無い。
夫はガソリン代を惜しむ彼女を連れ、町で外食するに決まっているからだ。
亭主持ちで、よその旦那の愛人を営業しつつ
そのかたわら夫に遠征中というノゾミの立場を考えた場合
二人で昼どきの食堂なんかへ行くと目立つ。
淫靡な雰囲気というのは、それと知らない人にも伝わるため
亭主や彼氏の耳に入る恐れがあり、冷静に考えれば都合が悪いかもしれない。
しかしそれ以上に、愛人はタダメシが大好きな生き物だ。
タダメシを前にしたら、自分を抑えられない悲しいサガがある。
噂も発覚もなんのその、誘われたら這ってでも行くのは間違いない。
30年近く前の古い話なので、前例として活用できるかは疑問だが
未亡人イク子を会社に入れた時は、毎日連れ立って外食していた。
夫からの福祉サービスの一環だが
のぼせたら片時も離れたくないのが夫の習性でもある。
当時はヤクザの情婦を営業中だったイク子も
うるさい彼氏にバレるのを気にせず、当然のように同行したものだ。
昔、記事にしたが、イク子が入社したことも
二人で外食していることも知らなかった私は
毎朝、夫の弁当を作っていたものだ。
夫はそれを夜、庭で飼っていた雑種犬のポッケに与えていた。
ポッケの食欲が減退したのと
弁当箱のフチが犬の歯でガタガタになっていたのとで
ようやく夫が弁当を食べてないことがわかったのだが
この時は最高に腹が立った。
私は朝の弁当作りが苦手だからである。
愛人と外食するなら、「弁当はいらない」と早く言って欲しかったぞ。
ともあれ夫は依然として毎日、昼には家に帰って来る。
若かったあの頃ほどの情熱は、無いと言っていいだろう。
だからといってどうということもないが
体温が低いということは、燃え上がって駆け落ちとか
嫉妬にかられて嫌がらせなどの“祭”が開催されないまま
静かに自然消滅のコースを辿るという
ここ10年ばかり繰り返してきた地味路線に落ち着くと思われる。
祭が無いとなると何やら残念な気もするが、高齢者だから仕方がない。
そんなある日、正確には先週
本社から河野常務が来ることになった。
前日、夫にかかってきた電話によると、何か重大な発表があるらしい。
当日の朝、常務が会社に到着すると、続いて松木氏も会社に来た。
彼が入院中だと認識していた夫は一瞬
「やっぱり転移は嘘だったのか」
と思ったそうだ。
が、松木氏の衰弱ぶりは圧巻で
能天気な夫もさすがに尋常でない雰囲気を感じ
重大発表とは、松木氏の進退に関わることだと直感した。
常務、松木氏、夫の3人が事務所に揃うと、常務は厳かに発表。
「松木が退職することになった」
聞いていた通り、ステージ4の肺癌と肝臓への転移だった。
今は一時的に退院しており、来月からまた
抗がん剤治療のために長期入院に入るという。
常務の計らいで、しばらくは会社に籍を置いたまま傷病手当をもらい
それが切れた時点で退職の運びになるという話だ。
「父さん、本当にお疲れ様でした」
夫から松木氏退職の報告を聞いた私は、心からねぎらったものである。
あの男の嘘と芝居に翻弄された12年は、我々にとって長かった。
彼が無くした重要な郵便物も、彼がしでかした重大なミスも
あっけに取られるような嘘と芝居によって、全て夫のせいにされてきた。
去年の夏、よそに届けるお中元を夫が開封するように仕向けて
泥棒扱いしたことや、次男の素行をねつ造して
本社に提出する告発文を作成したことなど
彼の悪事の数々は、到底忘れられるものではない。
病気がそうさせた…という考え方もあるかもしれないが
それは否定する。
知らない国の言語で寝言を言わないのと同じく
元々、本人の持つ素地がなければ、あのようなことはできない。
世にも稀なる醜い心を持った男と、ようやくおさらばできるのだ。
爽やかな風が吹いたような清々しさを感じた。
思い返せば、無実の罪を着せられて悔しがる夫や憤慨する息子たちに
私は何度言い聞かせたか知れない。
「必ず報いがある。
嘘をついて人を陥れる人間が最後にどうなるか
あんたたち、よ〜く見ておくのよ!」
もちろん、腹立ち紛れの憎まれ口だ。
そして12年の歳月を経て
それなりの結果が訪れたとも思える事態になった。
この分では、いつもここで人の悪口を言ってる私なんて
どれほど苦しんで死ぬかわからんぞ。
くわばら、くわばら。
元気なうちに、もっと言っておこう。
とは言っても松木氏のことだ。
傷病手当をもらって休んでいるうちに病気が良くなり
華麗なる復活を遂げる恐れもあるため、手放しで安堵するわけにはいかない。
なにしろ出勤したら寝ていればいいのだから、重病人でも続けられる。
病気ということで、本社も大目に見るだろう。
最後まで油断すまい…
我々はそう戒め合いながらも、つい笑顔がこぼれてしまう一日であった。
ともあれ松木氏がいなくなると、後任が気になるところ。
本社の措置について、たいていのことは
「どうにでもしてくれ」という諦めのスタンスでいる我々だが
この後任問題だけは、そうはいかない。
また松木氏や藤村のような、とんでもクラスはもうこりごりだ。
本社の回し者として、うちのお目付け役に就任するのは誰か…
我々の興味は、この一点に集中していた。
《続く》
かなりの低体温。
のぼせていれば、あの車に乗るのは絶対に止める。
ダイちゃんにはノゾミに社用車を使わせる権限があろうが
社内のことなので、夫にもそれを止める権限ぐらいはある。
時速70キロの普通車がノーブレーキで右運転席に突っ込み
その衝撃で段差のある歩道へ飛ばされた軽自動車のダメージは大きい。
メチャクチャになった現物を見れば、そして車に関する仕事をしていれば
どんなに修理をしたって元通りにならないのはわかる。
修理には1ヶ月かかり、直って来たらドアが開かなかったため
車を届けに来た修理工場の人は外へ出られず
そのまま修理工場へ逆戻りした。
さらに何週間か経って車は戻って来たが
それ以来、誰もが遠巻きにして、乗ることはなかった。
そんな恐怖の車をノゾミに使わせて平気とは、ひどいではないか。
まあ、自分は人と違って特別だと思い込んでいるのが
不倫者というものよ。
一方、特別という見地では、この車の特別ぶりも負けてはいまいから
特別なノゾミにふさわしい、“スペシャル・カー”ということにしておこう。
もっとも夫が完全にぞっこんなら
ノゾミが昼食を摂りに自宅へ帰ることは無いので
スペシャル・カーを使うことも無い。
夫はガソリン代を惜しむ彼女を連れ、町で外食するに決まっているからだ。
亭主持ちで、よその旦那の愛人を営業しつつ
そのかたわら夫に遠征中というノゾミの立場を考えた場合
二人で昼どきの食堂なんかへ行くと目立つ。
淫靡な雰囲気というのは、それと知らない人にも伝わるため
亭主や彼氏の耳に入る恐れがあり、冷静に考えれば都合が悪いかもしれない。
しかしそれ以上に、愛人はタダメシが大好きな生き物だ。
タダメシを前にしたら、自分を抑えられない悲しいサガがある。
噂も発覚もなんのその、誘われたら這ってでも行くのは間違いない。
30年近く前の古い話なので、前例として活用できるかは疑問だが
未亡人イク子を会社に入れた時は、毎日連れ立って外食していた。
夫からの福祉サービスの一環だが
のぼせたら片時も離れたくないのが夫の習性でもある。
当時はヤクザの情婦を営業中だったイク子も
うるさい彼氏にバレるのを気にせず、当然のように同行したものだ。
昔、記事にしたが、イク子が入社したことも
二人で外食していることも知らなかった私は
毎朝、夫の弁当を作っていたものだ。
夫はそれを夜、庭で飼っていた雑種犬のポッケに与えていた。
ポッケの食欲が減退したのと
弁当箱のフチが犬の歯でガタガタになっていたのとで
ようやく夫が弁当を食べてないことがわかったのだが
この時は最高に腹が立った。
私は朝の弁当作りが苦手だからである。
愛人と外食するなら、「弁当はいらない」と早く言って欲しかったぞ。
ともあれ夫は依然として毎日、昼には家に帰って来る。
若かったあの頃ほどの情熱は、無いと言っていいだろう。
だからといってどうということもないが
体温が低いということは、燃え上がって駆け落ちとか
嫉妬にかられて嫌がらせなどの“祭”が開催されないまま
静かに自然消滅のコースを辿るという
ここ10年ばかり繰り返してきた地味路線に落ち着くと思われる。
祭が無いとなると何やら残念な気もするが、高齢者だから仕方がない。
そんなある日、正確には先週
本社から河野常務が来ることになった。
前日、夫にかかってきた電話によると、何か重大な発表があるらしい。
当日の朝、常務が会社に到着すると、続いて松木氏も会社に来た。
彼が入院中だと認識していた夫は一瞬
「やっぱり転移は嘘だったのか」
と思ったそうだ。
が、松木氏の衰弱ぶりは圧巻で
能天気な夫もさすがに尋常でない雰囲気を感じ
重大発表とは、松木氏の進退に関わることだと直感した。
常務、松木氏、夫の3人が事務所に揃うと、常務は厳かに発表。
「松木が退職することになった」
聞いていた通り、ステージ4の肺癌と肝臓への転移だった。
今は一時的に退院しており、来月からまた
抗がん剤治療のために長期入院に入るという。
常務の計らいで、しばらくは会社に籍を置いたまま傷病手当をもらい
それが切れた時点で退職の運びになるという話だ。
「父さん、本当にお疲れ様でした」
夫から松木氏退職の報告を聞いた私は、心からねぎらったものである。
あの男の嘘と芝居に翻弄された12年は、我々にとって長かった。
彼が無くした重要な郵便物も、彼がしでかした重大なミスも
あっけに取られるような嘘と芝居によって、全て夫のせいにされてきた。
去年の夏、よそに届けるお中元を夫が開封するように仕向けて
泥棒扱いしたことや、次男の素行をねつ造して
本社に提出する告発文を作成したことなど
彼の悪事の数々は、到底忘れられるものではない。
病気がそうさせた…という考え方もあるかもしれないが
それは否定する。
知らない国の言語で寝言を言わないのと同じく
元々、本人の持つ素地がなければ、あのようなことはできない。
世にも稀なる醜い心を持った男と、ようやくおさらばできるのだ。
爽やかな風が吹いたような清々しさを感じた。
思い返せば、無実の罪を着せられて悔しがる夫や憤慨する息子たちに
私は何度言い聞かせたか知れない。
「必ず報いがある。
嘘をついて人を陥れる人間が最後にどうなるか
あんたたち、よ〜く見ておくのよ!」
もちろん、腹立ち紛れの憎まれ口だ。
そして12年の歳月を経て
それなりの結果が訪れたとも思える事態になった。
この分では、いつもここで人の悪口を言ってる私なんて
どれほど苦しんで死ぬかわからんぞ。
くわばら、くわばら。
元気なうちに、もっと言っておこう。
とは言っても松木氏のことだ。
傷病手当をもらって休んでいるうちに病気が良くなり
華麗なる復活を遂げる恐れもあるため、手放しで安堵するわけにはいかない。
なにしろ出勤したら寝ていればいいのだから、重病人でも続けられる。
病気ということで、本社も大目に見るだろう。
最後まで油断すまい…
我々はそう戒め合いながらも、つい笑顔がこぼれてしまう一日であった。
ともあれ松木氏がいなくなると、後任が気になるところ。
本社の措置について、たいていのことは
「どうにでもしてくれ」という諦めのスタンスでいる我々だが
この後任問題だけは、そうはいかない。
また松木氏や藤村のような、とんでもクラスはもうこりごりだ。
本社の回し者として、うちのお目付け役に就任するのは誰か…
我々の興味は、この一点に集中していた。
《続く》