安倍首相は歴史に向き合い、明快な姿勢をとるべき
人民網日本語版 2015年06月03日14:15
中国、米国、英国が日本に降伏を促したポツダム宣言の発表からあと1カ月余りで70年になる。この肝心な時にあたり、ポツダム宣言に関する安倍首相の最近の発言が世論を騒がせている。(文:賈秀東・本紙特約論説員、中国国際問題研究院特別招聘研究員。人民日報海外版コラム「望海楼」掲載)
安倍首相は5月20日の国会での党首討論で、日本の侵略戦争についてのポツダム宣言の認識を「明確に認めることを拒み」、ポツダム宣言のその部分を読んでいないと公言。6月1日の衆院特別委員会で安全保障関連法案を審議した際には、当時日本政府はポツダム宣言を受諾し、最終的に降伏したと述べた。続いて内閣は2日の答弁書で「首相は当然(ポツダム宣言を)読んでいる」と安倍首相を擁護した。
ポツダム宣言に関する安倍首相の発言が二転三転し、日本政府が火消しに追われている。これはまさに安倍政権が歴史に向き合うことができないため、自らを窮地に陥れているのだ。
安倍首相がポツダム宣言全文を読んだことが一体あるのかないのかは、彼のみが最もよく分かっている。だが、ポツダム宣言に対する安倍首相の姿勢は広く知れ渡っている。ポツダム宣言はカイロ宣言など戦時国際法文書とともに戦後の対日処理および戦後秩序構築の重要な基礎を構成し、日本右翼はこれを気がかりにし続けている。
ポツダム宣言などの国際文書に対する姿勢は、侵略の歴史に対する日本の政治勢力・人物の姿勢を検証する試金石となっている。ポツダム宣言の原則・精神と照らし合わせると、歴史に対する安倍首相の姿勢が不合格であることが分かる。
安倍首相はかつて様々な方法を露骨に用いて日本の侵略の歴史を否定し、時に国際政治の必要から策略を弄し、曖昧でどちらにも取れる言葉を用いて国際世論を惑わしもしてきた。たとえば、歴史認識に関して歴代内閣の立場を継承すると漠然と表明するだけで、「侵略」「植民」「おわび」といったキーワードは回避してきた。たとえ少し前に訪米し、世論の圧力を前にした時でも、これらのキーワードに言及せず、反対に絶えず戦後日本の平和路線を強調し、国際的貢献を標榜し、自らの「積極的平和主義」を売り込んだ。
安倍首相はポツダム宣言は第2次大戦時の連合国の政治的立場を代表する公式文書に過ぎず、当時日本がポツダム宣言を受諾したのは戦争終結の1つの方法に過ぎなかったと公言した。これは安倍首相が、第2次大戦はカウボーイ的な勝敗の対決であり、第2次大戦の結末は戦勝国と敗戦国を分けただけであり、正義と非正義、侵略と反侵略の区別は双方になかったと考えていることを物語っている。この誤った歴史認識に基づき、安倍首相は日本の降伏と敗戦は認めても、腹の中では日本の植民・戦争行為が侵略行為であり、非人道的・反人類的犯罪であったことを依然認めようとしていない。道理で日本は8月15日を「終戦の日」と称しているわけだ。同様の理屈で、安倍首相は靖国神社参拝を当然のことと考えているわけだ。
日本の内閣答弁書は、5月20日の党首討論での安倍首相の答弁について「ポツダム宣言に関する具体的な発言の通告が事前になされなかったため、宣言の正確な文言を手元に有しておらず、つまびらかではないと申し上げた」とした。全くひどい弁解だ。まさに安倍首相の手元に内閣が事前に準備した答弁がなかったからこそ、その答弁は本心を露呈したものと見なされるのである。歴史問題に関する安倍首相の過去の発言と照らし合わしさえすれば、そう推断できる。
われわれが常に言うように、侵略の歴史の扱いにおいて、ドイツは日本の模範だ。ドイツのメルケル首相は5月初めのナチスドイツ無条件降伏70周年に際し「ナチス時代に引き起こした戦争に対して、われわれドイツ人は大きな責任を負っている」としたうえで、ドイツは歴史に真っ直ぐ向き合い、直ちに現下の問題を解決するとした。
戦後70年は日本にとってチャンスでもあり、関門でもある。日本が歴史と未来をどう把握するかが鍵となる。歴史を前に、安倍首相は曖昧な姿勢をとるよりも、明快な姿勢をとった方が良い。「歴史に真っ直ぐ向き合い、直ちに現下の問題を解決する」ことこそが安倍首相がとるべき姿勢だろう。(編集NA)
「人民網日本語版」2015年6月3日