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歴史にかんする「脱亜入欧」である。そして、徳川時代は「鎖国」の時代であった、というあやまった認識がひろまった。

2018-01-29 | 日朝韓中友好親善
朝鮮通信使の意義と現代/仲尾宏
「誠信交隣」の関係を築いてこそ

消されていた朝鮮通信使<


朝鮮通信使が日本の社会、とりわけ学校教育や歴史研究の場で取り上げられ、知られるようになったのはそれほど古いことではない。例えば「広辞苑」の1965年版をみても豊臣秀吉の「朝鮮征伐」の項はあっても「朝鮮通信使」の項はない。戦後、1950年に発刊され、社会科の教科書として採用された「くにのあゆみ」にも登場していない。

ある研究者によれば高校の教科書にはじめて取り上げられたのは72年であったという。

「広辞苑」は新村出を筆頭とする「進歩的文化人」を総動員した大辞典であり、「くにのあゆみ」は同じく家永三郎らの手になるものである。このような事象を生んだ背景には幾つかのことが考えられる。

その第一は明治維新以来の歴史研究者の思想的「偏向」があった。すなわち明治以前の対外関係にかんする関心は長崎のオランダ貿易が中心であったことである。それに加えて欧米の文化に対する喝仰が輪をかけた。歴史にかんする「脱亜入欧」である。そして、徳川時代は「鎖国」の時代であった、というあやまった認識がひろまった。

その結果として、近代以前の東アジア、とりわけ朝鮮に対する軽視と偏見がはびこった。1910年の「韓国併合」とその後の植民地支配がさらに人々の意識を蝕んだ。

戦後日本となってもなおその事象はかわらなかった。約200年にわたる朝鮮通信使とその事跡は一般の人々はもちろん、その研究にかかわろうとする人々もごく少数であった。その様相をうち破ったことの一つは少数の研究者とともに1980年代からの在日朝鮮人たちの通信使の事跡や各地の遺品の収集とその研究であった。辛基秀氏らの果たした先駆的役割は大きい。

そして、日本の研究者の間でもようやく「鎖国史観」への反省もふくめて江戸時代の対外関係の枠組みを再検討しようという取り組みが本格化し、また、中世の対外関係の研究も飛躍的に進んだ。また、各地の博物館などで地域の歴史研究とかかわって史料の収集や研究が進んだ。今日の学校教科書ではそのすべてに朝鮮通信使の事跡が記述されているが、それまでは先述した戦後日本の歴史研究のありようの過程が反映しているのである。

韓国でも戦後の解放から直ちに朝鮮通信使の研究や評価が高まったわけではなかった。むしろ、ここ約20年の間にようやく市民権を得つつある、といってもよい状況であろう。この度のユネスコ記憶遺産の登録申請とその結果がさらによい結果を生むことを期待したい。
世界記憶遺産への登録

今回の登録申請活動は2012年から始まった。その年、韓国の釜山で開かれた「朝鮮通信使全国交流大会」の会場で韓国の釜山文化財団から近未来にその登録を日韓共同で実現したい、という提案であった。そして、この世界記憶遺産の登録申請は各国の政府機関だけでなく、民間の個人や団体でも申請母体となりうる、という好条件があった。とくに東アジアをめぐる国際情勢が険しくなっていること、そして日本ではとくに排外的言動が大手を振って罷り通っている現状では、もし、この条件がなければ今回の申請は陽の目をみなかっただろう。朝鮮通信使縁地連では、この条件のもとに関係自治体などによびかけて、同年中に申請作業のための日本学術委員会を六名の委員で発足させて、以降の日韓合同の学術委員会および国内学術委員会を開催した。以降16年3月まで12回の日韓合同会議を開催した。そして16年3月30日にユネスコ委員会事務局へ申請書を電送した。

しかし、申請物件に値するとユネスコが認定する対象には厳しい条件が設定されていた。

世界各地からの推薦でいままでに認定されたものは、たとえば「アンネの日記」「マグナカルタ」「ベートーベン第九交響曲の自筆楽譜」など名だたるもので、条件は次のとおりである。

(1)その資産が世界的に普遍的価値を有していること。

(2)その資産が真正のものであることが証明できること。

(3)その資産の管理状態が万全で安定性が確保されていること。

(4)その資産はいつでも公開しうること、したがって公共機関の目が行き届いていること。

そこで日本学術委員会としては、推薦に足る条件としてまずすでに国または自治体の指定文化財として指定されている物件を優先し、次いで公益機関の保管下にあるもの、そして、所有者がこの推薦に同意していることを確認して作業を開始した。

その結果・総数48件、点数にして209点を選んだ。その内訳は次の通りである。

(1)外交記録:3件、19点

(2)旅程の記録:27件、69点

(3)文化交流の記録:18件、121点

韓国側も同様の基準で選定を行い、それぞれの提案の理由、現状と問題点を忌憚なく論議して韓国側の推薦物件とあわせて、111件、333点を推薦することとした。

選定と推薦の結果は、以上のすべての物件がユネスコの基準に合致するものとして認められた。すなわち、朝鮮通信使の記録が世界史的価値を有する人類の普遍的遺産であることが認められたのである。
ユネスコ登録実現後の課題

その結果として期待したいことは、若い世代の中から、朝鮮通信使のことに強い関心を抱き、研究にたずさわる人々が輩出することである。そしていままでの研究が十分掘り下げていなかったことを研究したり、新しい資料や史実の発見に意欲を燃やして成果をあげていただきたいことである。また通信使の関連地域では新しい資料の発掘とともに、地域の誇りとして通信使の事跡を再評価し、新しい角度からその意義を問いなおして、地域振興のために活用していただきたいことである。

またユネスコからは登録資産の保存と公開がそれぞれの資産について課せられている。

資料の保存については技術上の困難さ、そして、それを克服するための財政的制約などの問題がある。それらの課題の解決にはそれぞれの地方自治体に負うところが多い。また一地方自治体では解決不可能な場合もあろう。国レベルの対応も含めた対策も必要であろう。このたびの世界記憶遺産登録を契機として、いっそうの研究の深化と関連地域の相互の連携によって自治体や地域住民の理解が進むことが望まれる。
日本と朝鮮半島の平和のために

10回の合同学術委員会では双方の委員が一つひとつの課題について率直な意見を交し合った。時には双方の朝鮮通信使の研究にかかわってきた視点の違い、取り上げようとする書画に描かれた人物の歴史的評価、また、通信使そのものの史的位置づけの違いなどをめぐって意見が対立することもあったが、究極の目的であるユネスコ登録達成の大目的を成功させるために双方が歩み寄ることで、最終の成案に到達することができた。

登録のための討議の過程では日本の研究者と韓国の研究者の間で朝鮮通信使の歴史的意義づけをめぐる主張の違いもあったが、その克服も今後の課題として双方が認識した。今後は朝鮮民主主義人民共和国の研究者にも関心をもっていただき、研究が一層深化すると共に、より広く市民のみなさんにも200年にわたる平和と不戦の時代があったこと、その期間中は文化交流の進展によって東アジアの各民族の相互理解も進んだことを学び、これからの時代を朝鮮通信使の時代が生んだ雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の残した言葉、「争わず、偽らず、真実をもって交わる」関係、即ち「誠信交隣」の関係を築いていく時代としたい。
仲尾宏(なかおひろし)

1936年生まれ。主な著書に「朝鮮通信使と徳川幕府」「朝鮮通信使と壬辰倭乱」「大系 朝鮮通信使」(全八巻、辛基秀と共編)など多数。02年京都市国際交流賞。07年京都新聞学術文化大賞受賞。14~17年朝鮮通信使ユネスコ世界遺産登録申請日本学術委員長。京都造形芸術大学客員教授。

(朝鮮新報)


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