羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

復活! 野口体操公式ホームページ

2008年04月05日 06時58分29秒 | Weblog
 ご迷惑をおかけしておりました。
 昨晩「野口体操公式ホームページ」は、復活いたしました。
 画像関係が、すべてダウンしておりましたが、3月20日時点まで、回復いたしました。

 これから動画等々の情報も、随時アップしていく予定です。
 よろしく願い致します。
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本日発売!

2008年04月04日 08時17分58秒 | Weblog
 待ちに待った4月4日がやってきた。
 本日は『マッサージから始める野口体操』(朝日新聞出版)が、全国の書店に並ぶ予定日。
 今朝は、朝日新聞の「今月の新刊」という宣伝のなかに、書名を見つけてホッとした。
 これからどのように読者の方に受け入れていただけるのか、楽しみでありながらもドキドキしている。

 先日、野口三千三先生の祥月命日には、野口体操の高弟の一人であるIOさん立会いのもとに見本を供えて
「野口体操の‘義務教育’を卒業させていただきます」
 報告を済ませてきた。
 今回の本を上梓できたことで、自分のなかから自然に沸き起こった‘義務教育卒業’という実感だった。
 いや、人生には卒業という節目は大切だと思う。
 このことによって次なるステップを踏み出すことができるのだから。
 丁度この日に、折りよく九州から上京された方がおられ、一緒に墓参りをしてくださったというのは、野口先生の采配ではないかと思っている。
 
 ……実は、夕方、大学の打ち合わせ会に出席する前に、きっと、間違いなく、新宿と池袋の書店をのぞきたくなる、と予感しています。そして、つい、本を買ってしまうんですよね。本人だとわかるはずもないのに、レジの前では、うつむき加減で代金を支払うんです。あ~ぁ!……
 

 ところで、現在「野口体操公式ホームページ」が、見られない状態に陥っています。サーバー管理上の問題のようです。
 この時期にあわせてリニューアルをしてきただけに残念です。
 佐治さんがソフト会社と連絡を取りながら復旧作業に取り組んでおります。
 もうしばらくお待ちください。
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動き出すメタボ市場!?

2008年04月03日 08時32分35秒 | Weblog
 4月から始まった「特定検診・特定保健指導」に関連して、ニュースや新聞がにぎやかである。
 言われていることは、ことごとく実際は‘難しい’という一言に尽きるようだ。
 今日の日経新聞朝刊「ゼミナール」-動き出すメタ市場④ーを読むと、具体的な数字を挙げて、医師の参加が難しいという話が載っていた。
 つまり、特定保健指導に医師の役割が大きいのだが、時間の確保や収益の点から現実には問題がありすぎるという指摘だった。

 なんでも特定保健指導では、個別の行動目標などを設定する初回の個人面接には普通でも二十分以上を要するという。重症な人の場合はそれ以上の手間と時間がかかる見込みだ。
 長期にわたる支援、個別面接、集団指導等々、国の想定では一人当たりの費用は最大二万円で、多くの医師がこの‘特定保健指導’に参加するのは考えにくいと書かれている。

 何も考えないで見切り発車して、振り回されるだけのような気がする。
 一方で健康市場は、このときとばかりに躍起になって、宣伝をかけてくる。
 人生の幸せの大部分は健康によって支えられていることは確か。
 だから特定検診や特定保健指導の前に、個々人が自分の暮らしの方向性を、見つめなおおすことの方が先決かと思うけれど、今さら暮らしぶりを変えようもないことが目に見えてしまう。
 ましてや生きてきた時間に比例して増え続ける‘しがらみ’は絶ちようもなく、実際には、人様のご指導のもと行動目標など立てられて、それに準じて暮らせるわけもない。

 健康シンドローム、健康強迫症を増やして、よっぽど不健康な心向きになりはしないかと、老婆心が頭をもたげる。
 タバコがいけない、食べすぎもいけない、飲み過ぎだっていけない、夜更かしはいけない、仕事のしすぎはいけない……誰だってわかっているのよ。いけないといわれると余計にやりたくなるのが人間の習い性かも。
 しかし、もとは、脳が覚えてしまったことをリセットするのは、難しいということ。人間はコンピューターではないのだから。
 
 なかでもいちばん難しいのは運動不足解消で、毎日かならず運動する習慣をもつことだ。これだって、強制されると反抗心が昂ぶる人だっているわけで。
 
「健康になれるのだったら死んでもいい」という名言を、あっちこっちで聞くようになった昨今である。
 かくいう私の新刊本にも、この名言が……。 
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良くない歌

2008年04月02日 09時37分45秒 | Weblog
 昨日の日経新聞夕刊「プロムナード」に、作家の林望氏が執筆中のエッセーを読みながら、小学校のころを懐かしく思い出した。
 お題は「洗い髪」。
 出だしはこうだ。
『「洗い髪」と書くよりも、「洗ひ髪」と、旧仮名遣いで書いたほうがしっくりするようなことばである』

 その「洗ひ髪」から連想される歌が『お富さん』だという。
 
 ……粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪……

 春日八郎が歌って流行らせた。
 昭和三十一年に小学校入学した私も、この流行歌を口ずさむどころか、大声をあげて歌っていると、周りの大人たちに制止させられた。それでもスキをみてまた歌う。

「ゴシンゾサンエ↑ オトミサンエ↑ ヤサ オトミ↓ シサヒブリダナ~~~(江戸っ子はヒとシが逆になる)」
 
 皆で「粋な黒塀……」と歌ったあげく調子に乗って、胡坐をかき、袖を捲り上げる真似をし、腕を組んで、見得を切るところまでを真剣にやってみせる友もいて、周りで囃し立てる。
 子どもたちはノリノリで『白浪五人男』よろしく五人がずらりと並んで思い思いに見得を切る。
 それが目白にあったお嬢様学校附属小学校の休み時間や掃除時間のことだった。
 懐かしいなぁ~!
 
 当時、その歌が歌舞伎の『与話情浮名横櫛(ヨワナサケ ウキナノヨコグシ)』の世界だという何となくの認識はもっていたから不思議だ。誰かが親から聞いてきたことに違いない。
 お腹を抱えて笑い転げていた小生意気な子ども時代。
 
 その学校ではほとんどの子どもが日本舞踊を習っていた。
 自然に歌舞伎の名場面が再現されたのだ。
 昭和二十年代から三十年代は、東京では幸いにして焼け残った町に、粋な黒塀に見越しの松を見ることが出来た。
 父が懇意にしていた我が家から近くにあった中野新橋の待ち合いには、時々連れて行ったもらった記憶がある。そこには綺麗な娘さんがいて、その横顔をちらりちらりと覗き込んで、何となく気持ちが華やいだり艶めいた記憶までも残っている。
 
 このエッセーは、江戸時代の鬢付け油で結い上げた髪にまつわる「洗い髪」の話なのだけれど、読み終わる前に子どものころに引き戻されてしまった。
 今頃になって流行歌『お富さん』は、「良くない歌」だったことに苦笑している。

 しかし、もっと驚くのは歌の命が長かったことだ。
 流行歌『お富さん』は昭和二十九年からだというから、小学校三年生のときにも歌っていた記憶がある。昭和三十三年だ。
 いずれにしても子どもは詳細なわけわからずも、ちょっと「いけない大人の世界」を垣間見るのが好きなのだ。
 
 エッセーによると「江戸も御殿女中は髪を洗ふこと稀なり。京阪の婦女もこれを洗ふ者はなはだ稀なり」とある。
 筆者は言う。
「たまさか髷を放って洗った髪は、すぐに油をつけて髷に結いたくはなかったのであろう。(中略)そんなしどけない姿でいるというのは、恥ずかしくもあるけれど、またいっぽう仇な(艶っぽい)風俗でもあったわけである」

 なるほど! おホホホほっ……。
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桜花

2008年04月01日 08時42分57秒 | Weblog
 
  見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける

          素性法師(古今和歌集 巻第一春歌上、五六)

 平安の都大路の実景を詠んだ和歌であると解釈するのは、実に、素人の素直な読み方かもしれない。
 写真にある『日本的自然観の研究』斎藤正二によると、「サクラとヤナギとを並列して一陽来福のシンボルと見る考え方は、夙に中国民間習俗のなかにあり、これが日本に伝わっていたことを見落としてはならぬ」(下巻・146ページ)
 ところが話はこれで終わらない。
 漢詩に歌われている桜花は、ユスラウメをさしていると見る説が有力らしい。
 
 ここに挙げられいる漢詩を載せておくと……
 
 「何処哀箏随急管 桜花永巷楊岸」李商隠 
 「柳色青堪把 桜花雪未乾」 郭翼の陽春曲

 桜花は桜ではない、とそのような区別が王朝歌人に出来たかどうかは疑問であると斎藤は書く。むしろ素性法師が中国にならった平安の都大路を詠むことで、「ここに正真正銘の文化があり理想国があり栄輝がある」(斎藤)ことを確信した思いを吐露したのだと指摘している。

 つまり桜は‘貴族の花’であり‘都市の花’であった。
 
 では、いつの頃から桜との関係が深まったのか。
 日本人と桜は太古より始まったのではなく、『記紀歌』からようやく見られるという。しかし、本格的に桜花が歌われるのは『万葉集』になってからだ。
 それらの古代詩歌は、中国に習った貴族文人の‘学習の成果’だという斎藤の読みに、ふと近代日本の西洋かぶれを思わずにいられない。

 話を大忙しで近世に飛ばすと、ようやく江戸庶民の‘民衆の花’として桜が賞味されることになる。確かに、こうしてブログを書きながら、耳には『元禄花見踊り』の長唄が聞こえてくるし、目には歌舞伎『京鹿子娘道成寺』や『助六所縁江戸桜』の舞台が鮮やかに浮かんでくる。みごとに春を謳歌する生命の姿なのである。
 
 ところがいちばん身近な時代における桜は、不幸な歴史を背負わされてしまった。
 軍国主義の時代に、「桜と大和魂」が関係づけられたことによって、生命の謳歌に死の影が漂う。
 最後に斎藤正二は本居宣長の和歌について書く。
「サクラを見て、ああ美しいなあと嘆声を発すること、こちたき理屈なしで感嘆すること、これが本当の日本の精神だ」と、宣長の門人であり養嗣子である本居大平のことばを挙げている。
 宣長は町人階級の出身で、物に囚われない合理主義的な思考を生得的に享けていたことを書き加えている。

 いやはや日本的なるものと何となく思い込んでいる自分が恥ずかしく思えた。
 久しぶりに三十年近く前に手に入れた本を取り出して、頁をめくっている。
 日本的なるものとしての価値観が育つまでには長い時の経過が必要で、ようやく「私たちの桜」になっていくということに気づかされた。
 だからこそ桜は‘日本の花’になったのだ。

 そしして野口三千三先生のお宅近くにあった西巣鴨・東大学生寮には、柳が大木に育っていた。
 新芽が春風に揺れて、それはそれは美しく、立ち止まってしばし見とれてしまうのは私だけではなかった。
 しかし、先日久しぶりに訪ねてみると、柳の姿は跡形もなかったのだ。
 学生寮の半分が建替えられていたので、きっと、その時に切られてしまったに違いない。
 
 それも時勢だ、と言い放って、何とはなしに寂しい気持ちを簡単におさえることができなかった。
 しかし、それはそれとして、桜と柳の取り合わせは、春爛漫の風情そのものであるのだから、今日はどこの桜に酔ってみようか。
 秋の錦に対して春の錦、華やぎの時である。
 宣長の歌を素直に読んでみましょうぞ。

  敷島の大和心を人とはヾ 朝日に匂う山桜花
                          
                          本居宣長
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