<すき焼きは久しぶり>
この前の日曜日に飲酒解禁。日曜、月曜、火曜と三連荘で酒を呑んで盛岡駅前のビジネスホテルで水曜の朝を迎えた。日、月はプライベート。昨晩は北東北地区の座員たちとの親睦会で呑んだ。
「“呑む”という行為は時間を消費することだ」ということが改めて分かった。札幌の“もうのまんぞう氏”が指摘し、小生も37日間の断酒で十分体得していたことであるが、久々に三日間呑んでみて実感として思い知らされた。ただ、この時間の消費がはたして一方的に“悪”か、というとそうでもないのではないか、という気がしている。
まず、呑んでる時間はまったくの無駄ではない。人間、一人では生きていけない以上、コミュニケーションをとることは非常に大事なことである。また、呑んで酔っ払って、話の内容の大半を忘れてしまうことは時間の無駄であり“悪”だと思っていたのだが、逆に全部覚えているというのも相手にとってはもちろん、自分にも良くないのではないかと考えを改めた。
すべて忘れるのはさすがにどうかと思うが、半分ぐらい忘れる方が人間関係は円滑に回ると思う。すべて覚えているというのは“嫌な野郎”の条件のひとつになりうるし、そういう人は宴席に連なってはいけないのかもしれない。以上は円滑なコミュニケーションを取りたい仲間との宴席の場合である。
嫌われてもいいから、実をとる宴席というのもある。接待や上司などと呑む時がそうだ。この場合は、宴席に呑まない人がいたら、言動に気をつける必要がある。呑まない奴は何でも覚えているからだ。そういう意味では今回の断酒経験はいい勉強になった。
こういう仕事の宴ではなるべく覚えておくことが多い方がいいので、呑まない工夫が必要だ。「まだ、喪に服している」とか、「今日は呑まない日と決めている」とか、禁酒を装うのがいい。そうもいかない時は、ビールで乾杯した後は焼酎の水割りかお湯割りに切り替え、アルコールの入っていない水かお湯を呑むようにする。これは水割りを作る人に耳打ちしておけばいい。
いい年をして、ハタから見ればそれなりの社会的地位を得ているにもかかわらず、若い頃同様、なんの考えもなく、どんな宴席でも同じように呑み、話し、分別なく酔っ払う。ということ自体がアホなのであった。今回の断酒経験でようやくそのことに気がついた。
“酔っている時間”もまったくの無駄ではないという気がしている。これはうまく言いあらわせないが、頭の中をボーっとさせておくことは良いことではないかもしれないが、たまにはいいのではないか。いつもいつもハッキリとした頭で生きているのも疲れるものだ。つまらんことを忘れさせてくれる効用がある。もっとも、大事を忘れる弊害もあるが・・・。
ま、いずれにしろ“酒”とうまく付き合う方法についてはいろいろ考えてみようと思っている。面白いアイデアが出てくれば、また、ご披露します。