みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

良寛さん  その8(自力の極致)

2021-06-04 19:11:12 | 仏教
                 
人はみな、煩悩が燃え盛る火宅の内にいるようなものだ。しかし、その人を救わんがために火宅の外へ導くのは無意味だ、と良寛さんは『法華讃』で言う。
煩悩の真っ只中にいながらにして、人は救われることが出来る、と良寛さんは言っているのだろうか・・・ そうだとすれば、これは、煩悩具足の衆生=悪人こそが救われる、と親鸞聖人が説く「悪人正機」と同じではないか・・・ 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死を離れることあるべからざるを、憐みたまひて願(=『大無量寿経』の説く仏の本願)を起こしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼みたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、(親鸞聖人は)仰せ候ひき。(『歎異抄』より)

私たちは煩悩の渦中にあるけれども、「全ての人を必ず救う」という仏(=阿弥陀仏)の本願によって救われるのだ、と親鸞聖人は説いている。仏の本願は、荒海に漂う私たちを救ってくれる大船だ、と。「他力本願」といわれる所以である。(なお、「他力」とは、「他人の力」ではなくて「仏の力」という意味です。念のため。)

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。(親鸞聖人の主著『教行信証』の序より)

ところが良寛さんは、火宅の内なる人は、既に大白牛車(=人を救うことができる方法)に乗って運転している、という。消防車を運転しているようなものだから、自ら操作して、燃え盛る煩悩の火を消せば救われる、ということかと思う。



まさに「自力」の極致というべき説だと思う。