みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「岡倉天心~その内なる敵」

2013-10-16 18:50:06 | 

台風通過の風雨の音を聞きながら、松本清張(1909~1992)の標記の著書(1982~3 「藝術新潮」連載)を読みました。

岡倉天心(1863~1913)は、明治の美術界を牽引したことで名高いけれども、自身は創作家ではありません。「茶の本」は名著とされていますが、茶人というわけでもありません。

Dscn3787_2数年前に「茶の本」を読んだとき、その強引な文脈に抵抗感を覚えました。昨年訪れた五浦の記念館の展示や六角堂(大震災後再建)の様子からは、とてつもなく偉大なようでありながら、その人物像を不可解に思いました。

本書は、関係資料(清張が発掘したものを含む)の引用に多くの頁を割いています。ノンフィクションと言ってよいでしょう。それらの資料が示す情報は多角的に比較検討されて、天心像が丹念に構築されていると思います。

岡倉天心は文部官僚だったということ、この明らかな事実を私も等閑視していました。もちろん、タダの官僚ではなかった。特異なカリスマ性を有していて、だからこそ今日に至るまで信奉者が多いわけです。しかし信奉者は転じて仇敵になることもある。官僚の派閥争いに敗れて、落ち延びた先が五浦であり、越後赤倉であったのですね。

三人(横山大観、菱田春草、下村観山)のすぐれた画家が天心を崇めたからといって、かれら弟子の言葉どおりにわれわれまで天心を師と仰ぐ要はない。天心の行動に見られる矛盾を彼のカリスマに溶けこませて雲烟視するのは、天心信者のすることである。わたしがこれまで書いてきたことを、「天心の尊像」の破壊者として非難する声があるかもしれないが、それもまたやむを得ない。

確かに「尊像」は引きずり下ろされたかも知れないけれど、天心の「実像」に著者ほど親愛を寄せた人は稀有ではないか、とも思います。以下は天心の最後についての一節です。

天心、五十二歳であった。まだ若い年齢だったが、明治の「巨人」がほとんどそうであるように、鬱然たる長老に思われた。

天心像に対する私の漠然とした違和感の由来が、今回の読書によってかなり明確に意識化できたように思います。