1985年に阪神がリーグ優勝した時、
僕は19歳で、大阪の天神橋六丁目に住んでいた。
そこに、当時通っていたデザイン専門学校の寮があったのだ。
僕は何の気なしに天六の大衆食堂で一人でご飯を食べていて、
店内についていたテレビで、阪神の優勝を知った。
そのあとの街はエライ騒ぎだった気がするけど、
そうでもなかったかもしれない。
どちらにせよ僕は興味がなかったし、
お金もなかったので、寮の部屋に帰って寝た・・・・と思う。
あの頃の僕は本当にお金がなかった。
デザイン学校は課題(宿題みたいなもの)が多くて、
バイトも出来なかったし、
実家も何故かその時期は困窮(?)していて、送金も滞っていた。
お金がないのってツライ。
周囲はバブル景気まっただ中で(その当時はそんなこと知らなかった)、
しかもデザイン学校の同僚は地方から出て来た金持ちの子供ばかりで、
すごい荒い金遣い。パチンコで1日、何万円もスッて平然としている。
僕はと言えば靴下を買うのも躊躇するほどだった。
電車賃も痛い、昼飯代も痛い、自販機の60円のジュース買うのでさえ迷う。
人生であんなにお金がなかったのはあの時だけだ。
だからそのちょっと後、僕が学校を諦めて、
友達の紹介で
アメ村でフルタイムのバイト(ほとんど就職である)を始めたのも、
必然、と言えるのだ。
とは言え・・・時給550円wだったから、月の稼ぎもひどいものだったのだが
靴下も買えるし、60円のジュースも迷わずに飲める。
仕事場はさすがにお洒落で活気があったし、
のちのちに、ランブルフィッシュが上手く行ったのも
あの場所(アメ村)の活気に、僕や佐治や庄司や三太が呼応したから、
といった側面があったと思う。
みんな、お洒落になったもん。それは大事なことだった。
モ吉が大阪の渋いブルーズバンドに加入したのも大きかった。
あれで随分、人脈が広がったのだ。
(それがのちに、十三ファンダンゴにつながった。)
そして重要人物、岩佐・・・・・・・・。
岩佐は、あの頃、どうしてたのだろう????
あんまり、会ってなかったな。今思えばもっと、会っておくべきだった。
何の話だったかな。
そうか、阪神の優勝だ。
阪神が優勝すると僕は、お金がなくて情けなかった1985年と、
そのあとのことを思い出す。
2023年の現在では、
佐治も、岩佐も、モ吉も・・・・リカオさんも、もういない。