ここ2日ほど、
ジョン・アーヴィング著・「ホテル・ニューハンプシャー」に耽溺している。
25年以上前に読んでるはずなのだが、内容をほとんど覚えていない。
うろ覚えのストーリーは、映画を観た時の記憶だと思う。
自分でもアタマ悪っ・・と思うが、新鮮に読めるのでお得、とも言える。
しかし、無上に面白い。片時も飽きさせない。
これを映画化したい、と思った人の気持ちがわかる気がする。
映画的・・・・とは思わないのだが、情景が思い描けるのだ。
そして登場人物が魅力的。特にフラニー。
サリンジャーー著の「グラス家サーガ」でも、フラニーという女の子が
出てくるのだが、こちらのフラニーは本名がフランチェスカである。
この「ホテル・ニューハンプシャー」では、それぞれの本名が出てこない。
フラニーが本名、というケースも、あるのだろうか?
省いてるだけかな。
今はまだ、上巻を読み終わった時点なのだが。
で、少しだけ残っている記憶で、この本はここからが怒涛の「切ない」パートなのだ。
この辺までは、生き生きと生きていた家族の記憶である
(いいことばかりじゃないけどさ)。1937年ごろから1956年ごろ。
第一次ホテル・ニューハンプシャーの成立以前と、成立してからのすったもんだ。
ルーツとしての熊と、インディアン・オートバイ。
全員、幼いか、若い。
ふと気づくと、全編、過去形で書かれている。
これが、語り手の現在に近づくにつれ、状況は破壊的になって行くし、
どんどん、色んな事が失われていくのだ。
僕にしては珍しく、ゆっくり、丁寧に読んでいる。
まだ半分しか読んでないのに、もう、終わるのが惜しい。
もうひとつだけ、「ホテル・ニューハンプシャー」について。
この主人公(語り手)の名前、さり気に ジョン なのだ。
作者と同じ名前。・・・・・・・・・当然、自伝的要素が濃いのか?と思うよね。
僕は中学生の頃、スヌーピーの登場するアメリカの新聞連載漫画
「ピーナッツ」に熱中していた時期がある。今でも好き。
当時は気付かなかったのだが「ピーナッツ」の主人公は
チャーリー・ブラウンなのだが、著者の名前は
チャールズ・m・シュルツなのだ。
チャールズの愛称がチャーリーだなんて、中学生にはわからない。
何と言うか・・・・・・・何も言えない。
さてさて、これを読み始める直前まで僕は、
梨木香歩の「不思議な羅針盤」というエッセイ集を読んでいた。
これがまた、素晴らしく良かった。
梨木香歩は、自身の情報をほとんど公開してないひとで(写真もない)、
でもどうやら関西在住であったらしい。しかも滋賀県。
滋賀県ということは必然的に、琵琶湖周辺、と推測される。
今はどこに住んでるのかわからないのだが、この人の作品も面白い。
このエッセイ集にも。いくつも、
心から納得してしまう言葉がたくさんあった。
ひとつだけ抜粋する。
「人は群れの動物であるから、他者と何かで共感する、ということに
思いもよらぬほどのエネルギーをもらうのだろう。しかもそれが、
自分自身の核心に近い、深い深いところの共感ならなおさらのこと。」
ホントに、そうだと思う。
心の深いところでの共感、というのはとても大事な大事なものなのだ。
僕らみたいな・・・世間から外れたようなバンドマン達は、
そういうものを大事にし過ぎた・・・・のかもしれない。
いい風に言い換えれば、デリケート(過ぎ)でもあったのだ、良くも悪くも。
共感性を擁護するあまり、「常識」(もしくは「良識」)を平然と、踏みにじって来たのだ。
僕は
常識なんて本当に、何の意味もないと思っていた。
そしてもうひとつ、
p・k・ディックの小説の、
レプリカントたちと人間の違い、を判別する唯一の手段が、
「共感性の有無」なのだ。。
これって、すごいことだ・・・・と、今更ながら思う。
梨木香歩はしかも、僕の敬愛する(今は亡き)杉浦日向子と同世代であるらしく、
このエッセイ集の中で、彼女に言及して、共感している。
それもとても嬉しかった。
梨木香歩の「不思議な羅針盤」から、もう一節だけ抜粋する。
「今、同時代に杉浦日向子がいないことが、切なく、つらい。」
共感のあまり、ナミダが零れそうになったですよアタシ。