極私的十年史・その前の10年

2006-07-14 11:15:37 | Weblog
ちょっと内省的になるために、
静かな気持ちになるために!
やってみよう、その前の10年史。

1986年。これは、転機の年だった。
まだデザイン専門学校にかよっていた俺は、夏休みを利用して
クルマの免許を取りに長野の清里へ、合宿免許というものに
「ランブルフィッシュ」のヴォーカル佐治と出掛けた。
そこで「横浜サーベルタイガー」の二人と出会う。
この長野の山奥での3週間が、俺達を変えたと思う。
大阪に帰ってきてすぐ、俺はアメリカ村の古着屋で
フルタイムのバイトを決めた。学校にはもう行かなかった。

1987年 はバンドとバイトに明け暮れた。
「ランブルフィッシュ」はこの頃から、大阪EGG PLANT等に出演し始めた。客はまだぜんぜんいなかった。日本橋のブルースバー、「FOUR ROSES」に通いだしたのもこの頃。俺は、髪の毛を伸ばし始めた。前歯を折ったのも・・・この頃だ。以後十年以上、俺は歯っ欠けをトレードマークにすることになるのだ。

1988年
6月、「ランブルフィッシュ」のオリジナルメンバーで、高校のときからの大事な友達であるベーシスト、岩佐とおる が交通事故でこの世を去る。俺達は・・この事からは、未だに立ち直っていない。そんな風にしか言えない。

11月、十三FANDANGOに「ランブルフィッシュ」初出演。

1989年
「ランブルフィッシュ」で自主制作レコード「青の時代」製作。
これは岩佐に捧げられている。
世間のバンド評価の波に乗り、「ランブルフィッシュ」のFANDANGOでのライヴは常に人で溢れるようになる。

1990年 ライヴ、ライヴ、ライヴ!
京都へ、東京へ、名古屋へ!、碇健太郎と出会ったのは、
この年の磔磔だったかな。
浅川マキと関学の学祭で、セッションライヴしたのも確かこの年だ。
他には・・・懐かしいキャプテンレコードの、オムニバスCD参に参加して、その発売ライヴを何箇所かでやった。そのとき「怒髪天」と友達になって、その後VO・増子のウチに泊めてもらったりした。
横浜の、7THアヴェニューで「ガンスリンガーズ」と対バンしたのもきっとこの年だ。楽屋でいきなり喧嘩になりそうだった・・・。「あの時お前がおらんかったら絶対殴りかかってた」と後年、村上くんが言っていた。その時、俺が何を言ったのか?・・・わりに俺らしくも微笑ましいので、俺に会ったとき直接聞いてね。

1991年
山口冨士夫、SOUTH SIDE SHUFFLEと共に、東・名・阪・ライヴツアー。その他・・とにかくライヴ!ライヴ!ライヴ!
現「プロペラ」のVO・ゆうたろうとD・ようへいが在籍していた「ホーボーズ・ジャングル」に出会ったのは確か、この年の秋、大阪のどこかの女子大の文化祭だ。奴等とは一瞬で友達になった。

宣伝さえほとんどしてないのに、FANDANGOはいつもいっぱいだった。・・俺は、これが永遠に続くと無邪気に思い込んでいた・・・・。

1992年
FANDANGOレーベルよりライヴアルバム発売。これは
30cm、LPサイズの特別仕様ジャケットのCDだった。
しかしこの年、2月に川崎クラブチッタで行われた
「ファンダンゴナイト」でのライヴを最後に、
「ランブルフィッシュ」解散。
俺は悩んだ末・・・自分で歌うことにして・・・・。
「風の歌」結成。7月にはFANDANGOで初ライヴ。
このときから俺は、自分の歌、というものに向き合っていくことになるのだ。

1993年・・この年も大転機。7月、
「風の歌」FANDANGOライヴの帰り道、
覚えてないのだが俺は、バイクでトラックに突っ込み、昏睡状態に。
生死の境をさまようも、なんとか帰還・・・・・。
しかし腰まで伸ばしていた長髪は、手術準備のため丸坊主に。
1ヶ月くらい療養しただけで社会復帰。
しかし俺の中では何かが大きな変化を遂げていた・・・・・
のだと思う。今になって、そう思う。
この年の秋ごろ、ミナミのバーで当時はまだ「車輪」をやっていた石原ボケロウと再会、意気投合し、二人で新バンドの構想を練る。12月、「風の歌」解散。俺と、ボケロウと、当時「風の歌」のベースだったキヨシ、と、「ランブルフィッシュ」から、「ニューエストモデル」に行ったマーボー、 の四人でスタジオ入り。
新バンド結成、名前はまだ無かった。
まだ「ゼロ」と呼んでいた。

1994年   新バンドのリハーサルに明け暮れる。
俺は新しいギターを買った・・・今もメインで使っている
G&L の、スカイホーク。レオ・フェンダーシグネイチャーモデルである。
バンド名「ばるぼら」に決定。
4月、FANDANGOで初ライヴ。ワンマンだったのに動員は200人を超えた。評判は、でも・・良くなかったな、始めは。
「ばるぼら」が、
アホアホ爆発!になっていくのはもうちょっと後からである。

1995年とにかくライヴに明け暮れる。川崎クラブチッタから、
ライヴアルバム製作のオファーが来る。・・結局断ったのだが、これがMIDIとCDを作るきっかけになる。
この年の暮れには、レコーディングの話が本格化する。

・・・・・・書き漏らしたこともたくさんあるが・・・・・・
こんなもんだろう。長いのに、読んでくれてありがとう。

自分のことを振り返ってみるのも、何と言うか・・・
必要なのかもしれない、時には。
しかしなんだか・・・・途方に暮れてしまうよ。




コメント
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