思い返せばこんな私にも、「幸せだった」という記憶はある。
一番古いのは小学校1年生のものだろう。
馬鹿な話だが・・・東京の小学校で、俺はクラスの人気者だ、と思った瞬間があったのだ。
その時は嬉しかった。でもその直後に転校して、
言葉もろくに通じない世界で疎外されたようになってしまった。あの落差は今思ってもスゴイ。
次の記憶は・・中学生で、
ギターを始めて、たどたどしいながらも弾けるようになって、
遠くから見ていただけだった友達と親しくなれて(僕はどいけんを、一方的に知っていただけだった。)、
生まれて初めて「合奏」をしたときの記憶。
「感動」が、あった。そして、彼らと話をするだけでもシアワセだった。。
次は・・・高校生になって
組んだバンドにサックス吹きの友達が加わった時の「え?」というような音楽的感動。
こんなに音楽って、ゴージャスになるんだ!と本気で思った。
その次は・・・・女の子のこと。感動があった。
このあたりの時代は感動とシアワセが多い。
住んでいた学生寮で、盟友と毎晩朝まで寝ずに話をしたことも、シアワセだった。
後からもそう思ったが、当時もそう思っていた。これは特別なことだ、と。
で、時系列は前後するけど
高校で組んだバンドの彼らがヤンキーではなく、芸術家・・というか
純粋なアーティストだった、と気づいた時も感動だった。
彼らは不良ぶってはいたけど、中身は全然、そんなんじゃなかったのだ。
でもその不良ぶってたやつらの中心人物と仲良くなるのはすごく時間がかかった。
彼の名前は佐治朝吉という。
いろいろあって、佐治と僕は大阪でそれぞれ、一人暮らしを始めた。19歳の頃。
我々の借りた部屋は近く、歩いて15分くらい。
他に大阪にまだ友達もいなかったから、しょちゅう会っていた。
週に何度も2人で、飲みに出ていた。飲んだくれていた。
今思えばあの時代もシアワセだと思う。当時は夢中で、気づいてなかった。
まだ何も始まっていなかった。
未来は完全に未知だった。
後から思い出すと、嫌だったことは綺麗に忘れている。都合のいいものだ。
後で思い返せば2025年の今現在も、シアワセだった・・・・と思うのだろう。
今も無我夢中で、感ずる前に日々が過ぎてゆく。
でも
克ちゃんがいて、赤井君がいて、トビーがいて。
どう考えても、これは夢の続きなのだ。
新藤監督はおそらく、
音羽信子と映画を撮っていた時代すべてが
シアワセだった、と後で思ったのであろう、と推測する。