まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

奈良16番「宝山寺」~神仏霊場巡拝の道・64(生駒山上も暑かった・・)

2023年09月06日 | 神仏霊場巡拝の道

8月13日、初盆供養と合わせての帰省の中の神仏霊場巡拝の道。まずは枚岡神社を訪ね、今回の目的地である宝山寺に向かうため、近鉄奈良線にて生駒に到着する。

コンコースには、生駒にリニア中央新幹線の新駅を誘致する横断幕が掲げられている。リニア中央新幹線・・・東京から名古屋までの開通もどこぞの知事のせいで当初の計画から大幅に遅れる見込みだし(というか、本当に開通できるのか?)、その先の大阪まではルートすら決まっていない。京都と奈良の綱引きがある中で、生駒も新駅に名乗りを挙げているとは。だから、私個人の意見としては、駅が府県境をまたがっている「高の原」案・・・。

さて本題。駅前の飲食店街を抜け、生駒ケーブルの鳥居前駅に向かう。鳥居前とは、かつてこの近くに宝山寺の一の鳥居があったことによる。近鉄が運行しているがこの線にはICカードが導入されておらず、往復の乗車券を購入して、発車間際のケーブルカーに乗車する。こちらはネコをかたどった「ミケ」号。車内は子ども連れの姿も結構目立つ。

この生駒ケーブルはケーブルカーには珍しく「複線」で運行されており、途中には踏切もある。正確には「複線」というより、単線が2本並んでいるといったほうがよい。そしてケーブルカーの特性上、ちょうど路線の真ん中で双方の車両がすれ違う。現在私が乗っているほうの線路の真ん中で「ミケ」号と「ブル」号とが交差し、もう1本の線路で昔ながらの塗色の車両がすれ違う。初詣時期などは両方フル稼働することもあるそうだ。

宝山寺に到着。ケーブルは生駒山上行きに接続しており、子ども連れは生駒山上遊園地に向かうようだ。その中、寺に向けての参道を歩く。

先ほどまで実に暑く感じていたが、さすが大阪の都市部から最も近い「涼しい場所」の生駒山とあって、ケーブルカーを降りるといくらか風が吹いて涼しい・・・と感じるのもほんの一瞬のことで、アスファルトからの照り返しがきつい。もう、日本において「避暑地」というのは半分死にかかっている言葉なのかもしれない。

昔ながらの旅館や飲食店が並ぶ参道の石段を上がっていく。この門前町、かつては宝山寺参詣後の精進落としの場として賑わっており、「生駒新地」、「宝山寺新地」と呼ばれたところ。今でもその手のスポットが残っているというが・・。

灯籠が並び、山門が近くなる。

宝山寺は古くから大坂の商人から信仰を集めている。宝山寺は本堂、聖天堂のあるエリアまでは24時間参詣が可能だそうだ。これは、日中の商売に支障がないよう、その日の商売を終えた夜間でも自由に参拝できるようにとのことで、昔から行われているという。さすがに夜間はケーブルカーは運行されておらず、クルマで来ることになるのだろうが。

宝山寺は役行者が開き、弘法大師も修行したと伝えられているが、現在の形の寺となったのは江戸時代前期、湛海律師によるとされる。歓喜天(聖天)を祀り、大坂商人だけでなく郡山藩(柳沢氏)や徳川将軍家からの祈願を集める存在であった。

本堂、そして聖天堂が並ぶ境内に着く。この2つの建物と、奥にそびえる岩屋(般若窟)の構図が見事である。商人の信仰が篤いといいながらも、修験道の場らしい景色である。

寺としての本尊は本堂の不動明王で、まずはこちらでのお勤めとする。

そして、もう一つ鳥居をくぐり、隣の聖天堂へ。歓喜天、聖天は神と仏の両面を備えており、利益をもたらす一方で一歩間違えれば禍が降りかかるというイメージがある。それだけ取扱注意、もとい現世に近いというのかな・・(個人の感想です)。聖天堂は檜皮葺で、棟の多い複雑な形状の八つ棟造りと呼ばれる建物である。こちらのほうが格式がありそうだ。

せっかくなので奥の院エリアに向かう。この先は門で仕切られており、さすがに夜間早朝は入ることはできない。

その中、境内で最古となる観音堂を経て、般若窟に祀られている弥勒菩薩の遥拝所に着く。弥勒菩薩までははしごや鎖で上れそうな位置だが、それがかえって危ないということで柵で仕切られ、立入禁止となっている。

さらに石段を上がる。参道の両脇には地蔵菩薩の像がずらりと並ぶ。先ほどの本堂や聖天堂は商売繁盛を願う庶民信仰のスポットにも感じられたが、さすがに木々の中となると雰囲気が変わる。途中の手水場の水でタオルを濡らし、途中の大師堂にも立ち寄り、体を冷ましながら石段を上る。

そして奥の院に到着。本堂のほかに、湛海律師を祀る開山堂が建つ。ここで手を合わせて一息入れる。

今回の神仏霊場めぐりは目的地の宝山寺まで来たところで終了とする。奥の院にて次の行き先を決めるあみだくじとする。予備選のくじ引きで出たのは・・

・吉田神社(京都30番)

・西教寺(滋賀16番)

・竈山神社(和歌山8番)

・朝護孫子寺(奈良17番)

・熊野本宮大社(和歌山4番)

・三室戸寺(京都44番)

またしても熊野三山が候補地に出た。さすがにここまで続くと熊野詣となるだろう。今の仕事の状況的に3連休を取るのは難しく1泊2日で行くことになるのだが、広島から1泊2日で行けるところなのかという思いがする。前回は「WEST EXPRESS銀河」で新大阪からの夜便で新宮まで出たのだが・・。一方、朝護孫子寺も選択肢に出ている。もしここなら近鉄生駒線で南下して立ち寄るとしようか。

結局出たのは、2枠に入っていた吉田神社。京都は京都で札所も多いのだが、この後の予定と絡めて訪ねることにしよう。

奥の院から本堂まで戻り、朱印をいただく。墨書には「歓喜天」とあった。

この後はケーブルカーで宝山寺から鳥居前まで戻る。この時はもう1本の線路を使っての運行で、かつての塗色の車両が稼働していた。個人的にはこちらのほうが交通機関らしさが出て好みである・・。

生駒到着後はそのまま近鉄奈良線、鶴橋経由で天王寺まで戻り、一献とする。さすがにお盆時期で、昼過ぎもどこの店も賑わっていた。やはりこういう時の生ビールは格別。これは猛暑がもたらず数少ない歓喜ということで・・・。

・・・ここからは追記として、この時気になっていた台風7号について。

13日には台風の進路予想もほぼ固まり、東海から近畿にかけて縦断する可能性が高くなった。そのため、早くも13日には、台風がもっとも接近、上陸すると予想される8月15日は東海道・山陽新幹線を終日計画運休するとの発表があった。私も15日の午後に大阪から広島に移動する予定でJRを予約していたが、これを受けて予定を前倒しして14日に移動した。

14日の新大阪駅はそれなりに混雑していたが、岡山行き各駅停車の「ひかり」と、岡山からは広島終着の「のぞみ」を乗り継いだためか、いずれの列車も自由席ですら空席が目立ち、隣に相客も来ない楽な移動となった。そして15日は終日台風中継をテレビで見て過ごした。

今は台風接近にともなう事前の計画運休発表も定着した感があり、利用客も早めの対応ができるので評価するところ。ただ、この夏でいうなればお盆明け16日のほうが世の中が混乱したように思う。計画運休が明けて16日は平常ダイヤか・・というところ、静岡県での線状降水帯である。むしろこのほうが世の中への影響が大きかったと思う(実際、私の仕事には影響があった)・・・。

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大阪19番「枚岡神社」~神仏霊場巡拝の道・63(「枚」が「ひら」とは・・?)

2023年09月05日 | 神仏霊場巡拝の道

2023年の夏休みはこの5月に亡くなった父の初盆だった。事前に実家あてに寺からの盆供養の案内が来ており、家々の法要に回るのであらかじめ希望日を教えてほしいとのこと。大阪では数少ない高野山真言宗の新興寺院なのだが、葬儀で紹介されたのがきっかけで、いつしか檀家に組み込まれた模様である。8月11日~15日が私の休みということもあり、13日は混むだろうから12日をリクエスト。無事にお経を上げていただいた。

これまで「お盆」といえば夏休みで帰省したり、あるいは旅行に出かける時季として過ごしたが、今年「初盆」を通して(飾りつけは実家にお願いしたのだが)、本来の意味の「盂蘭盆」を過ごすことができた。

さて翌13日は1日フリーとなったので、1日出かけることにする。行くとすれば神仏霊場巡拝の道の続きである。前回のあみだくじで出たのが、生駒にある奈良16番・宝山寺。鶴橋から近鉄奈良線で向かうとして、改めて地図を見て、その途中にある大阪19番・枚岡神社にも立ち寄ることにする。

猛暑が続く中、台風の進路も気になる今年のお盆の時季。大阪環状線を鶴橋で乗り換え、近鉄奈良線に乗る。線路横にはこれから向かう「生駒聖天」の看板もある。

最寄りの枚岡には急行は停まらず、後続の大和西大寺行き区間準急に乗る。LCカーで、休日ダイヤということもありクロスシートでの運転。まずは大阪平野を突っ切り、生駒山麓に沿って少しずつ高度を上げる。

枚岡に到着。神社は駅のすぐ上にある。改札を出たところの地下道をくぐればすぐに正面の参道に出るのだが、この時は気づかず、いったん生駒側にあるいて踏切を渡る。ちょうど通過列車が行き交う。車道に建てられた大鳥居をくぐる。

枚岡神社が創建されたのは神武天皇が大和で即位する3年前と伝えられている。神武天皇東征の時、国土平定を願って天種子命(あめのたねこのみこと)に命じて天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売御神(ひめみかみ)を神津嶽に祀らせたのが始まりとされる。この天児屋根命は中臣氏の祖神とされている。中臣氏といえば後に中臣鎌足=藤原鎌足が出ており、天児屋根命は藤原氏の祖神でもある。後に藤原氏の氏神として春日大社が創建されるにあたり、天児屋根命、比売御神を勧請したことから「元春日」とも呼ばれる。

石段の下には、狛犬ならぬ「狛鹿」が安置されている。春日大社と同じく、鹿が神の使いとされていることから鹿も祀られており(本物の鹿はこの辺り出没するのかな?)、片方は手水場の守護として、そしてもう片方は「なで鹿」としてなでるとご利益があるとされる。

神社の名前である枚岡というのは、山麓の平坦なところの岡「ひとひらの岡」が由来という。それなら「平岡」となるところだが、大阪には枚方のように「枚」を「ひら」と読む地名がある。1枚、2枚の「枚」は薄く平らなものを数える際の言葉。「平」と「枚」はつながっている。枚岡神社の古い記録も「枚岡」だったり「平岡」だったりだが、現在は「枚岡」で落ち着いている。

ちなみに先ほど出た「枚方」の地名の由来は、淀川が形成した「平らな潟」の上に開けたところ・・らしい。

「ひとひらの雪」という言葉がある。漢字にすれば「一枚の雪」かな。ただ、「ひとひら」を変換すると「一片」も候補に出る。ということは「片」も「枚」と似たような意味で、全国の「片岡」さんも「枚岡」・「平岡」と同じ意味合いでついた名前なのかな。

拝殿で手を合わせる。奥にある本殿はこれまで火災や兵火で何度か焼失した後、江戸後期の文政年間に建てられたもので、最近では平成令和の大造営が行われ、令和2年に竣工したばかり。祭神は先に挙げたニ神のほかに、鹿島神宮の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮の祭神・経津主命(ふつぬしのみこと)も祀られている。四つの社が並ぶ建築様式は「枚岡造」と呼ばれるそうだ。

こちらで朱印をいただく。枚岡神社が開かれた地で現在は元宮とされる神津嶽は30~40分ほどの登山となる。ルートの案内もあったがさすがにこの暑さでは・・。

本殿の右手には「感謝と祈りの道」その他の摂社、末社にも向かう。奥には伊勢神宮、橿原神宮、神津嶽の遥拝所もある。こちらでも手を合わせて、そのまま鳥居の外に出る。

こちらには梅林が広がっている。もっともかつての神仏習合の時代にはいくつかの神宮寺があったのだが、明治の廃仏毀釈により寺が取り壊され、その跡地に梅の木が植えられたのだという。さまざまな歴史を持つ枚岡神社である。

続いて生駒聖天宝山寺に向かう。ホームの待合室で涼んだ後、やって来たのは偶然にもラッピング列車「ならしかトレイン」。先ほどの「狛鹿」の導きかな・・・。

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第68番「正覚院別院薬師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(松本明慶作の薬師如来)

2023年09月03日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは広島市中区をいったん離れ、廿日市に向かう。第68番は正覚院別院薬師堂である。第66番、第67番と回った後で、八丁堀から広電宮島線にてそのまま廿日市まで乗車する。

廿日市市は宮島も含めた周辺の自治体との合併で広い面積を有するが、廿日市駅・電停がある桜尾地区は宮島の対岸で、かつては三方を海に囲まれた桜尾城があった。毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時には毛利方の後方支援の拠点ともなったところである。福島正則の時に城は廃城となったが、廿日市は西国街道の宿場町として、また北前船の寄港地として賑わいを見せるようになった。

これから目指す薬師堂は電停からもほど近いのだが、その途中に廿日市天満宮というのがあるので行ってみる。電車を降りた時、小高い丘の上に社殿があるのが気になっていた。石段を上がっていく。

廿日市天満宮は鎌倉前期、藤原親実が厳島神社の神主に任命され(合わせて桜尾城主ともなった)、鎌倉の荏柄天神を勧請して社殿を造ったのが由来とされる。境内に入るとちょうど宮島の姿が見える。手前には埋め立て地が広がってマンションや倉庫、商業施設などが並ぶが、そうしたものがなかった昔は宮島もよりはっきり見え、天満宮が遥拝所の役目も持っていたのかなと想像する。

この境内に隣接して正覚院がある。石段を上ると左が天満宮、右が正覚院である。元々は天満宮の別当寺で、明治の神仏分離にて天満宮と正覚院に分かれたという。ただ見た感じ、同じ境内という以上に、建物も棟続きになっているように思われる。

ここ正覚院は広島新四国の第83番であり、札所順だともう一度来ることになる。現在は不動明王が本尊だが、元々は薬師如来を本尊としていたそうだ。その歴史を思い、当時の住職が1984年に発願し、1995年に檀信徒会館を兼ねた薬師堂が完成した。石段を下りて100メートルくらいのところに到着する。

その薬師堂、建物は鉄筋コンクリートの3階建てである。2階に広島新四国の札が出ているが、シャッターが下りていて中に入ることはできない。これ、ビルの外でお勤めということになるのかなと思いつつ、せめて朱印をいただこうと1階のインターフォンを鳴らす。「八十八ヶ所のお参りで・・」というとしばらく間があって寺の方が出て来られ、どうぞ拝んでいってくださいと家庭用エレベーターで3階まで案内していただく。

改めて3階の上り口から中に入る。法要などで薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、弘法大師などが祀られている。3階は法要などの仏事で使用し、2階は広間になっているとのこと。たまたまこの時は法要などがなかったので中に上げていただいた形だ。

こちらの薬師如来は平成の名仏師として知られる松本明慶氏の制作。そう言われればこれまでいくつか目にしたことのある作風だなと思い出す。京都を拠点にされているが、広島新四国の札所でも大願寺の不動明王、極楽寺の阿弥陀如来、福王寺の不動明王といったところが松本氏の作で、結構あるものだ。このたびは薬師如来を前にしてのお勤めである。

お勤めを終えてエレベーターで1階に下りると寺の方が待っていて、お接待としてお茶のペットボトルをいただく。そして、ここはお参りだけで納経は正覚院の本堂での対応になるので、電話で連絡しておくと言われた。

・・ということで、もう一度天満宮への石段を上り、正覚院に向かう。天満宮の建物とは棟続きに見えるが、さすがに玄関は別である。こちらでインターフォンを鳴らすと寺の方が薬師堂と正覚院の両方の朱印の紙を手に出て来られた。うーん、札所順に回る中、これで第83番は参詣済・・・とはしない。先ほどこちら本堂ではお勤めをしていないので、朱印だけ入手済として、ここはここで改めて来ることにしよう。

再び宮島線で自宅最寄りの高須まで戻る。廿日市近辺にも一献の場所があるので、また来た時にはそうしたところも訪ねてみようか・・・。

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第67番「延命院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(原爆の業火)

2023年09月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

第66番・禅林寺を参詣後、同じ小町のすぐ近くにある第67番・延命院に向かう。寺の名前としては象王山普賢寺延命院と呼ぶそうだ。

通信制の並木学院に隣接して一応山門がある。町の中の寺院ということで境内もコンパクトである。本堂もコンクリート造りで最近改装したように見受けられるが、表の扉じたい閉まっている。

境内の一角に祠があり、ここに広島新四国の札がかかっているから、札所めぐりの人はこちらでお参りすれば十分というところか。

延命院は江戸時代、空賢上人が紀州から来て開いたとされる。やはり、浅野氏が紀州から広島に転封されたのに合わせてのことで、周囲の寺院と同じように新たに干拓した地に形成された寺町の一つであろう。

城下町の一角を寺院で固めるのは城郭の防御の目的もあったという。広島の場合、広島城を中心に見ると西に今も地名で残る寺町、東の丑寅の方角には二葉の里地区の東照宮をはじめとした寺社、そして南のこの一角という位置づけのようだ。北は、不動院が該当するかな。

さて祠には「あごなし地蔵」をはじめとした地蔵像ほかが何体も並ぶ。広島新四国のサイトでの紹介ページでは「原爆の業火を一身に受けられた延命唯一のみ仏」と記されている。ともかくこちらでお勤めとする。

祠の中には朱印の紙が置かれた例の黒い箱はなく、本堂の扉は閉まっている。つながっているのが庫裏のようなので階段を上がって玄関に向かうと、先に扉が開いて住職らしき方が出迎える。カメラでもあって、境内をうろうろしていたのが目に入ったかな。こちらで紙を受け取る。

外の通りはさまざまな飲食店も並ぶ「じぞう通り」である。由来はここ延命院の地蔵ではないそうだが・・。

さてしばらく中区一帯の札所が続くが、さて第68番は・・というとこの周りにはない。検索すると、第68番は廿日市市にある正覚院別院薬師堂。そして第69番はまた中区に戻って普門寺、第70番が禅林寺、延命院のすぐ近くの金龍禅寺である。この並びからすると、第68番は元々この近くのどこかの寺院だったのが、何らかの事情で札所を返上し、それを廿日市にある第83番の正覚院が引き取り、別院の薬師堂に第68番をつけたと思われる。

この後、じぞう通りから並木通りに入り、そのまま八丁堀近辺に出たので中心部の賑わいを楽しみ、昼食とする。その時に考えたのだが、次の第68番だけ廿日市で離れているが、またそのためだけに出かけるのももったいないので、今回そのまま向かうことにした。広電の廿日市からも近いので、八丁堀からそのまま宮島線に揺られる。暑い中を歩いたので、涼みがてらの移動である・・・。

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第66番「禅林寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島の茶人)

2023年09月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

8月6日の広島原爆の日を前に、広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きで出かけることにする。7月30日のこと。

今回は広島市の中心部に近い小町に向かう。まず訪ねるのは第66番・禅林寺。名前からして禅宗系の寺と推察され、八十八ヶ所のサイトを見るとはたして臨済宗妙心寺派とある。

自宅最寄りの停留所からバスに乗り、平和大通りに面した放送会館前で下車する。白神社から改めて平和大通りを歩いてみると、街路樹の間に被爆者の慰霊碑が点在するのに出会う。この一帯は原爆の被害が大きかったところである。先般広島のテレビ番組で、戦時下の広島にあって、空襲による延焼を防ぐための「建物疎開」のために動員されていた女学校の生徒たちが被爆した悲しい歴史を取り上げていたのを見たばかりである。

平和大通りの南に出る。店舗やマンションが建ち並ぶ中、所々にコンクリート造りの寺が目につき、一角には比較的新しいとおぼしき観音像もある。広島市役所や国泰寺高校に近いこの辺りは元々海だったが、江戸時代の広島藩による干拓で陸地となり、寺町が形成された歴史がある。これから訪ねる禅林寺も、元々は福島正則の時に尾張から高厳和尚を迎えて開かれた寺だが、当初は現在の旧日本銀行広島支店、頼山陽旧居跡あたりにあったのを、浅野氏の代になってからこの地に移されたという。

地図だと禅林寺に来たようだが。寺が見当たらない。そんな中で表札、案内板を見つけた。山門もなく、奥に本堂らしき建物が見える。隣接するマンションと同じ敷地にあるかのようである。

本堂の扉が閉まっているので外で勤めとする。縁側には、原爆慰霊か、お盆供養に使うのか卒塔婆が並べられ、参詣者がセルフで祈願の文字を入れるようになっている。また、本堂の前には「茶筅塚」があったり、鹿威しもある。隣接する建物も茶道教室でもやってそうな雰囲気だ。

読経していると、礼服姿の人たちが何人かやって来た。どうやら今から法事でもあるようで、住職や寺の方が出迎える。ちょっと込み入りそうだなと思い、今回ここで朱印をいただくのは見合わせることにした。というのも、禅林寺のすぐ裏手に第70番・金龍禅寺があるのだが、広島新四国は札所順で回ることにしているので、訪れるのはこの先第67番~第69番の後である。日を改めてその時に来ればよいと思った。

案内板によると、本堂裏の墓地に「上田宗箇遺髪塚」というのがある。上田宗箇とは初めて目にする名前だが、武将にして茶人、そして現在に続く上田宗箇流を開いた人物とある。元々は丹羽長秀に仕えていた武将で、長秀の死後は豊臣秀吉に取り立てられ、一万石の大名までなった。その後関ヶ原の戦いで西軍についたことで領地を没収されたが、当時紀州藩を治めていた浅野家に取り立てられ、浅野家の広島転封後は国家老として、また茶人として過ごしたという。

体のほうの墓は別にあるそうだが、禅林寺は上田家の菩提寺だったそうで、宗箇以降何代かの墓も残されている。

なるほど、広島ゆかりの茶人ということでの「茶筅塚」だったか。

寺は原爆で焼失してしまったが、爆風や火災に耐えた墓石が今もここに残されているという。

次はすぐのところにある第67番・延命院に向かう・・・。

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