まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第68番「正覚院別院薬師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(松本明慶作の薬師如来)

2023年09月03日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは広島市中区をいったん離れ、廿日市に向かう。第68番は正覚院別院薬師堂である。第66番、第67番と回った後で、八丁堀から広電宮島線にてそのまま廿日市まで乗車する。

廿日市市は宮島も含めた周辺の自治体との合併で広い面積を有するが、廿日市駅・電停がある桜尾地区は宮島の対岸で、かつては三方を海に囲まれた桜尾城があった。毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時には毛利方の後方支援の拠点ともなったところである。福島正則の時に城は廃城となったが、廿日市は西国街道の宿場町として、また北前船の寄港地として賑わいを見せるようになった。

これから目指す薬師堂は電停からもほど近いのだが、その途中に廿日市天満宮というのがあるので行ってみる。電車を降りた時、小高い丘の上に社殿があるのが気になっていた。石段を上がっていく。

廿日市天満宮は鎌倉前期、藤原親実が厳島神社の神主に任命され(合わせて桜尾城主ともなった)、鎌倉の荏柄天神を勧請して社殿を造ったのが由来とされる。境内に入るとちょうど宮島の姿が見える。手前には埋め立て地が広がってマンションや倉庫、商業施設などが並ぶが、そうしたものがなかった昔は宮島もよりはっきり見え、天満宮が遥拝所の役目も持っていたのかなと想像する。

この境内に隣接して正覚院がある。石段を上ると左が天満宮、右が正覚院である。元々は天満宮の別当寺で、明治の神仏分離にて天満宮と正覚院に分かれたという。ただ見た感じ、同じ境内という以上に、建物も棟続きになっているように思われる。

ここ正覚院は広島新四国の第83番であり、札所順だともう一度来ることになる。現在は不動明王が本尊だが、元々は薬師如来を本尊としていたそうだ。その歴史を思い、当時の住職が1984年に発願し、1995年に檀信徒会館を兼ねた薬師堂が完成した。石段を下りて100メートルくらいのところに到着する。

その薬師堂、建物は鉄筋コンクリートの3階建てである。2階に広島新四国の札が出ているが、シャッターが下りていて中に入ることはできない。これ、ビルの外でお勤めということになるのかなと思いつつ、せめて朱印をいただこうと1階のインターフォンを鳴らす。「八十八ヶ所のお参りで・・」というとしばらく間があって寺の方が出て来られ、どうぞ拝んでいってくださいと家庭用エレベーターで3階まで案内していただく。

改めて3階の上り口から中に入る。法要などで薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、弘法大師などが祀られている。3階は法要などの仏事で使用し、2階は広間になっているとのこと。たまたまこの時は法要などがなかったので中に上げていただいた形だ。

こちらの薬師如来は平成の名仏師として知られる松本明慶氏の制作。そう言われればこれまでいくつか目にしたことのある作風だなと思い出す。京都を拠点にされているが、広島新四国の札所でも大願寺の不動明王、極楽寺の阿弥陀如来、福王寺の不動明王といったところが松本氏の作で、結構あるものだ。このたびは薬師如来を前にしてのお勤めである。

お勤めを終えてエレベーターで1階に下りると寺の方が待っていて、お接待としてお茶のペットボトルをいただく。そして、ここはお参りだけで納経は正覚院の本堂での対応になるので、電話で連絡しておくと言われた。

・・ということで、もう一度天満宮への石段を上り、正覚院に向かう。天満宮の建物とは棟続きに見えるが、さすがに玄関は別である。こちらでインターフォンを鳴らすと寺の方が薬師堂と正覚院の両方の朱印の紙を手に出て来られた。うーん、札所順に回る中、これで第83番は参詣済・・・とはしない。先ほどこちら本堂ではお勤めをしていないので、朱印だけ入手済として、ここはここで改めて来ることにしよう。

再び宮島線で自宅最寄りの高須まで戻る。廿日市近辺にも一献の場所があるので、また来た時にはそうしたところも訪ねてみようか・・・。

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